受験算数と中学数学の違いについての考察
以下の文章は、メインの掲示板への質問に答えたものです。
全6回に分けて答えさせていただきました。
それを一つにまとめ、今後、修正・加筆を加えていきたいと考えています。2003年03月04日
※現在は、少しずつ修正を加えていますが、繰り返しも多々あり、自分でも読みつづいです。御免なさい。

kuramoto 骨格完了日2003.03.04

イントロ (算数と数学の違い
少し詳しく
ライン(作業員?)になりきるのだ!
勉強の目的
あるテキストの前書き1
あるテキストの前書き2

付録
私立中学・数学の参考書・問題集などの選択方法
(上位層向け)
数学は(受験)算数の進化形
=事例=

1回目-(2001/05/08(Tue) 09:21:45) イントロ (算数と数学の違い)
 まず、算数・数学の位置づけについて
1.算数=数の計算が主たる目的です。すなわち、江戸時代の読み書きそろばんの世界です。
 しかし、教科書を含めて受験のために文章題・図形なども学習しますから、ほとんど中学数学の世界になっています。
2.数学=数の学問が主たる目的です。数の理解から始まっていきます。
 中学数学では、負の数、平方根(無理数)と、数の拡張が行われます。小学算数では、整数→小数→分数と数の拡張が行われましたが、その継承的な発達過程の一こまです。高校数学では、虚数、複素数へと発展していきます。
 次に分野別(文章題、図形)で見てみます。
1.文章題(代数)
●受験算数(教科書を含めて)での基本は、変わり方にあります。1個増やせばどうなるかを考えていくのです。ただ、それでは時間がかかるため、線分図や面積図などの道具を活用することになります。それも問題に合わせて。
●中学数学では、文字化して、すべての未知数をx、yなどと表して解くことになります。算数がマニュファクチュア(工場制手工業)の世界、すなわち、まだ、職人芸の処理方法だったのに比べて、機械的なオートメーションの世界に入り込みます。すなわち、作業さえキチンと行えれば、後は効率よく処理しようという、ある意味の工業でのラインの地位しか与えられていないと、私は思っています。当然そこに面白さがさほどある訳ではありません。ただ、この作業は、高校数学、大学受験の数学を解くときのベーシックになりますから、等閑にすると、後で困ることは目に見えています。※それを意外と理解していないようです。生徒も保護者も。
★算数の方が面白かったのは、まさにそのような位置づけにあるからです。
2.図形(幾何) 
●算数では理屈よりも見た目が優先します。求積さえできればそれでよいのです。実に実利的です。
●しかし、数学になると、一応、学問ですから、何故か、の説明が必要になってきます。すなわち、論理展開を要求されているのです(代数もそのようになっていきます)。それは、人との会話に必要な勉強でもあると思っています。直感型の人間にとってはつらいのかも知れません。
★この部分が大きな差でもあります。同じ図形を解きながら世界がまるで違ってくるからです。職人芸から一般化の過程であるのかも知れません。

2回目-(2001/05/09(Wed) 16:52:26) 少し詳しく
 さて、中学へ入ってからの問題点は、入試算数と中学数学(1年・2年)では、やる問題にほとんど差がないことです。負の数と証明を除けば。
 そのため、中学入試の遺産を食いつぶしてしまう生徒がかなりおります。
●文章題では、何も方程式を活用しなくても、答えがでてしまいます。そのため、方程式のアルゴリズム(計算の手順)の習得、慣れに真剣になれないようです。まだ1、2年の内容であれば、さほど困ることはありません。消去算(逆算)で何とか得点に出来るからです。
 しかし、3年の内容になると2次の世界ですから、方程式のアルゴリズムに慣れていないと、トタンに処理不能になります。その当たりから焦り出す生徒がよくおりますが、1〜2年の空白を取り戻すのは並大抵ではありません。
 1年の習い始めから、確実に演習量を積んでいなかった報いが現実のものとなって現れてきます。
●図形(幾何)においては、一応、1年のうちは、計量が中心です。合同など基本的な性質は1年で学習しますが、ここでもほとんど中学入試でやっている事柄(一応)です。ただ、中学数学では定義や定理などを確実に覚えておかないと、2年の証明で困ることになります。証明は、単に計量すればよいのではなく、相手(採点者)に自分の考えを的確に伝えないといけないからです。そのためには共通な言語(定義、定理、及び、証明の手順)が必要になります。中学入試では見た目で、合同だろう、相似だろう、二等辺三角形だろうとやっていたのを、何故、そうなのかを順序立てて説明(証明)しなくてはならないのです。
 これらの定義、定理、証明の手順も1年から徐々に始まっていますから、その間にさぼっていると、やはり取り返しがきかなくなるのです。一挙に覚えればよさそうですが、一夜漬けの世界ですから定着度は悪い訳です。
★このように1年の数学をキチンとやっていないと、代数にしろ幾何にしろ、スタートでつまづいているのですから、挽回するためには、かなりの努力を要することになります。短距離(100m競走)なら、その段階でお終いですが、6年間の長距離ですから、努力によっては挽回することも可能ではありますが並大抵ではないことを認識させて欲しいものです。
 よく、小6の実力と6年後の実力とは全く違う、という声を聞きますが、その原因の一つは、受験算数に強かった生徒ほど中学入試に比べて、中学数学(教科書レベル)が易しいと判断し、なめてかかってしまい、アルゴリズムを習得しなければならない大切な時期を、無為に過ごしてしまうことにあると思います。その後に同じ勉強量では、逆転することはかなり難しくなると思っています。
 負の数の計算といい、文字式の計算といい、また、一次方程式の計算といい、実に単純作業です。何ら面白い?ことはないと思っています。受験算数に苦労した生徒ほど、方程式の良さを発見するのかも知れません。
 中学数学は、単純作業だと割り切って考えるべきだと思っています。創意工夫などないのだ、と考えるべきです。(本当は面白いことも、創意工夫もあるのですが、それはかなりの難問を処理するときだけです)
 単純作業を馬鹿にする生徒は、確実にしっぺ返しを喰らいます。それを、現時点では自分自身では気付かないのが普通ですから、それを保護者の方などが諭す必要があると思います。通り一遍のことを講師や教師が言っても、本人に自覚が無ければ、馬の耳に念仏です。

3回目-(2001/05/10(Thu) 15:25:32) ライン(作業員?)になりきるのだ!
 前回では、中学数学(中1、2)は、単純作業と断言してきましたが、習い始め(新しい知識を学習するとき)には、何故そのようになるのかを、キチンと理解していないと、いけないのは当然のことです。
 中学入試においても、計算でよく間違える、遅い、どのようにすればよいのか、との質問を受けます。
 決して、小数計算や分数計算の仕組みを知らない訳ではないようです。間違いの多くは、単純な引き算ミス、九九の間違いなど、低学年のときに覚えた計算がいい加減だったことに由来します。すなわち、最初に認知した方法(正しく行わなかった)が間違っていることにあります。これは一生物で、決して治ることはありませんが、よく間違える数値、パターンが分かるようになると、間違える数値に出くわしたとき、シグナルを送るようになり、間違いが少なくなっていく。そのために、保護者がチェックし、どのような数値、パターンで間違えるかを本人に量で示す必要があると、説明します。
 遅いのは、演習量の不足と、処理方法が我流なことからきているのではないか、と考えています。
 何故、不足しているのかといいますと、仕組みが分かればどのような計算でも、確実に速く処理できるであろう、とのうぬぼれと、計算ばからやっていても馬鹿らしい、時間が無駄だとの意識が働いているからだと、思います。単純作業ほど徹底した修練が必要です。それを怠ると、その作業を正しく習得することはあり得ません。
 中学数学においても、負の数や文字式の計算、方程式の計算などの単純作業において、まさしく、演習量が不足してしまうことが多いのです。その演習量不足が、これからの6年間の数学の学習に悪影響を及ぼすのは目に見えています。
 私のパソコン歴は10数年ほどです。HP作りは2年弱です。その間、様々なミスを犯しながら、今日に至っていますが、新しいソフトやマシーンに出会うとき、我流ではありますが、徹底して単純作業を繰り返しながら、それなりに作業をルーチン化していきます。それによって、3年前には速いと感じたパソコンの速度が、遅く感じられるようになります。
 勉強も、特に、負の数、文字式、方程式の計算などは、単純作業そのものですから、徹底した作業を疎ましく思わずに取り組み姿勢が必要だと思います。

4回目 -(2001/05/12(Sat) 08:16:24) 勉強の目的
 人間は目的を持って始めて勉強ができます。
 中学入試はせいぜい2年間ですからいいのですが、大学受験は6年後(高校受験は3年後)のため、大学受験を目指して6年間頑張らせるのはどうしても無理がありそうです。
 さらに、小学生の2年間に、【悪魔との約束】(中学受験を終えれば、さほど勉強しなくてもよい、など)をしている場合が多いため、子どもに勉強を強要できない保護者の方も多いようです。そして、小学生の内なら、さほど社会との接点も少ないのですが、中学になると、一挙に広がります。そこには様々な危険や楽しみがありますから、それらにのめり込んでいく生徒がいても当然です。それが大人(社会)への入口でもあるからです。
 勉強とは何か、人生とは何か、大人とは何か、など、ご子息と真剣に、まじめに話し合う必要があるのではないかと思います。

5回目-(2001/05/16(Wed) 03:10:12) あるテキストの前書き1
 一応、5回目と6回目で最後になります。当然、追加の質問などがありましたら、お答えします。
 10年ほど前に、【河合塾の私立系1年1学期の中学テキスト】の前書きに書いたものです。算数から中学数学への移行に関する、私なりのまとめと考えてください。ただ、この間、算数の解き方が、私の中ではかなり変質してきていますが。(1回目〜4回目と重複する部分がほとんどです)
 小学算数と中学数学の大きな差異はその解き方と記述の仕方にある。
 算数(算法)では、文章題は原則として<表>を用いて変わり方から答えを求め、解答時間の短縮のため<線分図>や<面積図>を活用して、具体的に目で見える世界を築いて解いた、また、図形は部分や全体を1と置いて、それぞれの面積や体積を比や割合で表して面積や体積を求めた。
 これに対して、数学では、文章題の解法は数量関係を文字を使って抽象化(方程式の立式)し、機械的に解く方法(アルゴリズムという)に変化する。この方法を代数学(algebra)という。
 また、図形は、数量関係のある問題では文章題と同様に文字化して解く場合もあるが、「何故そうなるのか」といった説明(証明、論証という)が必要な新たな世界に突入し、これに重心が移る。この図形の世界を幾何学(geometry)という。論証の世界は代数学にも適用され、算数では答えさえ求めれば途中の説明は多少不足していても正解となったものが、数学では途中の論述が正しくなければ正解とはならない。
 にもかかわらず、中学の教科書レベル、特に、中学2年までの多くの問題は算法でも解決可能なため、算数で力を発揮した多くの生徒は、数学で解くよりも算法で処理しようとする。しかし、その世界から早く脱却しなければ、これから学ぶ数学における真の学力は期待できない。そのため算法を一度忘れる必要があると思う。特に、1年の1学期は、算法を引きずる人が多いので心してほしい。
 さて、数学の学習について、古代ギリシャの数学者ユークリッドの逸話が残っている。
 マケドニアの王プトレマイオスT世が尋ねた。「お前の書いた『原論』によらないで、幾何学を学ぶ近道はないか」
 ユークリッドは答えた。「幾何学に王道はありません」
 また、ユークリッドの門をたたいたひとりの青年が尋ねた。「こんなこと(幾何学)を学んで、何の得になるのでしょうか」
 ユークリッドは召し使いを呼んで言った。「この青年は、学問をして何かの得をしたいと思っている人だから、お金を与えてやれ」
 学問というのは、コツコツと学習していかないと習得できないし、本来これによって利益を得るものではない。学問はすべてその人の思考力、分析力、直感力、総合力などの基礎的な能力を養い、あらゆる事象に対する視野の広い見方や、事象を正当に把握する方法、適切な処理の仕方などの才能を高めるものである。中でも数学は論理的な思考力を修練するのに適していると思っている。
 以上を念頭に入れて、抽象化され、論証を必要とする数学の世界に、一刻も早く慣れ親しまれんことを希求する。

6回目-(2001/05/17(Thu) 01:51:30) あるテキストの前書き2
 前回に引き続き、【河合塾の私立系1年2・3学期の中学テキスト】の前書きに使ったものです。それなりに、少しは文献(数学史)を読みましたが、間違いの箇所があるかも知れません。
 2学期が始まる。中学受験から半年を経過したが、既に算法の世界から脱却していると思う。1学期においても算数と数学の違いが垣間見られたはずだが、2学期からは一層顕著になってくる。それは記号表現の世界であり、論証の世界である。
 記号表現の世界では、数概念の拡張の1つである<負の数>に始まり、<文字式>から<方程式>へと進んだ。いわゆる代数学への入口である。これは、15世紀中頃にドイツで印刷技術が発明され、16世紀にイタリアはルネッサンスの時代を迎え、文化の進歩に対する好条件が着々と整えられたことにより、数学者や思想家、論理学者によって、記号の整備が行われた結果である。そしてフランスでは、オレムス(1320?〜1382)の行った関数のグラフ表示が発展する。アポロニウス(前260〜前200頃)の『円錐曲線論』の研究から<座標>という概念を確立したフェルマー(1601〜1665)と、代数的演算を幾何学的に解釈する方法を研究したデカルト(1596〜1650)によって、動く現象、動的なものをとらえる数学、即ち<解析幾何学>(高校分野/中学では座標幾何)が開拓されたのである。それは、デカルトの「我惟う、ゆえに我あり(コギト・エルゴ・スム)」にあるように、外界のものにわずらわされることなく、自らの思惟により納得のいくものはどしどし取り入れていこうとする合理的なものの考え方に由来している。負の数を数直線を使って視覚化して認識させたのはデカルトであるが、これは「負の数が実在しているかどうか」よりも「合理的であるかどうか」によっている。
 論証の世界では、ソクラテス(前469〜前399)が街頭で多くの青年と対話したことから生みだされた弁証法に起源があり、ユークリッド(前300頃)の『原論』によって完成したギリシャ数学の世界へ遡る。我々が中学で学ぶ幾何の証明の多くは、ギリシャ数学をもとにしており、その特徴は、17世紀の数学が記号的、機械的、動的であるのに対し、論理的、静的であり、その根底には美しいものや自然に対する憧憬があったといわれる。
 18、19世紀に発展した<微分学/積分学>(高校分野)は、アルキメデス(前287?〜前212)らによる面積・体積の区分求積法を関数の世界に応用したものである。そして20世紀に入ると、ドイツのカントル(1845〜1918)が創始した<集合論>によって、静的なギリシャ数学と動的な17世紀の数学が1つの概念で結ばれる。すなわち、数の集合に限らず、数学はすべてある要素の集合と、その要素の間に規定される公理によって構成されているという考え方である。これを基礎として現代数学(大学分野)が進展する。
 我々が学ぶ数学(算数も含む)の背後には、紀元前2000年のものといわれるリンド・パピルスから数えても4000年の歴史があり、その発達過程には、幾多の先人たちの努力とさまざまな社会的・文化的状況が寄与していることを思い起こしながら学習できればと思う。
※この前書きがあるテキストでは、自分の知りうる限り(書物で確認がとれる範囲内)の【数学史】を挿入しながら作成しました。