空間の祝杯
 
七ッ寺共同スタジオとその同時代史

 

七ッ寺共同スタジオ25周年記念出版
98年12月20日発行

  1972年、突如出現した七ッ寺SDは、創作活動や企画活動、市民運動をする者にとって輝ける星であった。それは、あの70年安保の昂揚と挫折をないまぜにしながら、アンダーグランドを善(よし)とする風潮ともマッチして、全国で同じような活動をしている者に希望と羨望感を与えた。
 額縁演劇からの脱却を謳い、宿泊可能な小屋として、何者にも縛られない小屋の使いやすさ、自由さから、名古屋で活動する様々な分野の、多くの人々はそこを根城とした。まさに、情報発信の場として七ッ寺SDはあった。そして、そこから新たな天地を求めて飛び立っていったものもいる。名古屋シネマテークも、その中の一つなのかも知れない。
 東海地区で活動していた人たち以外にも、つかこうへいや山崎哲、竹内銃一郎などが率いる劇団を観ることができた。彼らの創生期には、旅回りの名古屋公演には七ッ寺SDを利用していたのである。我々は、いまをときめく劇作家の若き時代を七ッ寺SDで見いだすことができた。
 私の主宰していた自主上映団体のナゴヤシネアストも、79年から82年までの4年間、留守番隊長である二村氏に多大のご迷惑をかけながらも、ここを主たる活動の場においていた。小川紳介や土本典昭など多くのドキュメンタリー作家や、戦前のドイツ映画、フランスの実験映画、ボリビア・ウカマウ集団のメッセージ色溢れる映像、70年代の自主製作映画など、名古屋の観客に紹介できたのは、七ッ寺SDの存在無くしては考えられない。
 中でも、大晦日に夜を徹して行った恒例の70年安保の記録映画「怒りをうたえ」(79年〜81年)は、熱い眼差しで迎えられたことも印象に残っている。
 しかし、82年、今池の地に自前の自主上映館・名古屋シネマテーク(通称テーク)を作ることになり、七ッ寺SDから離れることになる。当然、七ッ寺SDのあの雑然さや(映像)作家の発見、情報発信の思想はテークにも生かされていると思う。七ッ寺SDがなければ、今の形での名古屋シネマテークは無かったであろう。
 今や、中村文化小劇場をはじめとする公的機関による演劇空間は、各区に出現している。しかし、その使いやすさからは、七ッ寺SDの右に出るものはない。演劇を志す若き世代が七ッ寺SDから巣立っていくことを期待する。

定価(本体3000円+税)
名古屋の文化史の総決算であり、バイブルとなる出版物である
興味ある人にとって、絶対に損しない買い物