映画新聞 92年6月1日発行

 今年2月7日、実母の没後6日目に小川紳介の訃報に接し、無念さが込み上げるとともに、個人的な時代の節目の到来を予感する。送る者から送られる者への転換である。
 さて、小川プロおよび小川紳介との出会いは、1973年の『三里塚・辺田部落』に始まる。当作品の全国縦断上映の一環として、小川プロの上映隊がやってきたのだ。名古屋・岐阜地区の担当は福田・野坂の両氏。彼らから上映のイルハを教えてもらう。私がホールなどを借りて自主上映を始めた3年目の夏のことである。
 それまでの私は、記録映画=プロパガンダ、劇映画=人間の表出活動などと区分しており、記録映画に見向きもしなかった。しかし、『三里塚・辺田部落』において、その認識の甘さを露呈させられる。ここに描かれた世界は、まさに人間そのものであったのだ。成田空港に反対する農民の確固たる思想とその必然性、国家の論理性なき政策と傲慢さを描き出し、なによりも小川紳介その人の食物連鎖へのこだわり、および、被写体たる農民を見る目の優しさと鋭さが、私の脳天を叩きのめした。
                        ※
 その後、『三里塚・五月の空 里のかよい路』が77年に完成したにもかかわらず、冬の時代に突入している政治状況において、受け入れ体制はすでに地方にはない。やむをえず、私たちの手で上映することになった。時は78年3月。爾来、小川紳介+小川プロとの連帯が始まる。そこには、映画に携わる真摯な貧乏集団(?)に対する私の憧れもあったのだろうか。それが昂じて、持ち場こそ違え、私に映画への持続の精神を植えつけたようだ。
 時は流れ、『ニッポン国古屋敷村』(82)、さらに山形県・牧野での18年間の総決算でもある『1000年刻みの日時計』(86)の名古屋上映を担当する私たちのところに、プロデューサーである伏屋氏以下小川プロ一行が情宣のためにやってくる。小川紳介作るところの「水ぎょうざ」や「煮込みうどん」、「酉のビール煮」、同郷の牧野剛氏作るところの「五平餅」などに舌づつみをうちながら夜を徹して語り、飲み明かすのは、自然な成り行き。
 彼のしゃべりは、まるでマシンガンのように留まるところをしらず、口角沫を飛ばすは彼一人。世界の名も知らない若き映画作家(その中には候孝賢や李長鎬の名があった)との出会いと彼らの資質を声高らかに語る彼は、映画の道士とも思える風格に満ちていた。当該作品の深層部分を、語り部さながらにしゃべり、次回作の壮大なる構想をも説く彼の宇宙の中に、いつしか旅をさせられている自分に気づく。その構想の一つに、山の民をテーマにしたものがあり、「三里塚シリーズ」から「牧野村シリーズ」への自然な流れの中に一貫して見られる水や気候の自然現象、稲作や村落の歴史を踏まえながら、《農》の原点へ遡ろうとする彼の執着が濃厚に出ていた。
 そして、難病にかかった、と「映画新聞」の景山氏から伝えられる。あの忙しさと強靱な体力、貪欲な食べ物への執念が災いしたか、と呆然となる。
 その後、手術の経過も順調そうな彼に三重県の津で会ったとき、これまで撮った未編集のフィルムも挿入しながら「三里塚」の今を撮りたいという。それは決して弱り目の先祖返りの発想ではなく、《農》を知らずに撮っていた頃には見えない部分が多かったが、ある程度知った今は、自分たちの原点である「三里塚」の本質に迫れるのではないかとの想いがあったようだ。この構想だけは、実現して欲しかったし、実現させたかった。軟弱な私だが、映画のいろんなことを教えてもらい、兄とも思える厳しさと優しさに満ちた彼との最初の出会いが「三里塚」であったからだ。
                        ※
 最後の病床で、モルヒネを打たれながら無意識のうちに編集作業をやっていたという彼は、今はいない。しかし、彼の残したものの万分の一でも私達が明日に繋げていかなければならない。そのための一歩として、今回の「追悼上映会」を企画する。それが、名古屋シネマテークを作った目的の一つにも叶うに違いないのだ。
 奇しくも、6月25日は、彼の誕生日でもあり、私の誕生日でもある。また、名古屋シネマテーク設立十周年にも当たる。当然、現在のところ唯一の「10周年記念上映会」として、蓮實重彦氏の来館、そして講演を添えてこの企画を提示する。小川紳介の映画について語っていただく予定だ。みなさまの御来場と御支援を心からお願いするものである。