名古屋かわらばん83年1月号

  「映画がよほど好きなのですね。どこがよいのですか」、「映画を何故上映するのですか」、「十一年もの長きにわたって上映してきた原動力は何ですか。その裏には何かがあるのではないですか。それは何ですか?」とよく聞かれます。
 映画で生活しているのでもなく、運動性があるようにも見られない。年間百万円を超える持ち出しがあるというのだから、一般常識からすると、桁はずれの異常なものとして、映るのかも知れない。
 私は映画無しではいられない、という状態は八年前からなくなってしまったし、十一年と言われても、何時の間にか時間だけが過ぎ去ってしまったのであって、最初から何年やってやろうとか、一生やってやろうとか考え、又、こういう目的があって続けているのだ、と人に公言できるような確たる信念をもってやっているわけでもない。
 その為、前記の質問に対してその場その場で次のような異なった言い訳を呈示する。
 
      いいわけ その一
 私の場合、ほとんど全ての人間関係は、映画を通じてなされている為、映画を取り上げられてしまうと何も残らないのではないか、との危機感があります。映画をやめた時、自分の中での充実感が全く得られなくなるのではないか、との不安もあるからです。
 その為、惰性で続けてしまったのですよ。
             その二
 見たいものを見れない状況は、それが営業サイドの問題であるならば、営業を考えない私達が、それを見たい私達がやる以外にはないのではないですか。他人にお願いしたところで誰がやってくれるのですか。
 マスメディアによる一方通行的な情報や話題性に甘んじる程、私達は“やわ”ではないのですよ。一方的な情報に左右される状態は、映画の世界にしろ、政治の世界にしろ、決して好ましい状況ではありません。それに甘んじることは、正しく自分もその状況に加担していると考えねばならないのではないですか。
             その三
 私の個人的性格から、一度好きになったものを、自分の側から棄てることが出来ないのです。(逆に余裕がないということか)、それは映画に限らず、女性についても言えることですが、一時の感情で好きになったり、嫌いになったりすることが出来ないのです。ただ。あまり深く、その必要性を考えない為に(本当は必要なのでしょうが)、相手が逃げ出す場合が、応々にしてあるのです。
 これまでに、私のやってきた自主上映に関係した男性にしろ、女性にしろ、彼等に対し私の存在を、映画を持続させることにより、証明しようとするメッセージの一種なのかも知れませんね。
             その四
 私は文化的なもので、一番よく知っていると思われるのが、たまたま映画であっただけで、又、他人と対等に話が出来るのも映画であった為に、映画を続けているのです。裏返せば、私は要領が悪く、映画以外に何も出来なかったからです。
             その五
 道楽です。他の人がゴルフ、女遊び等に金を使うようなものです。
     いいわけをする、そのワケ
 当然、それらは全てではないし、全く嘘を言っているわけでもない。相手はほとんど納得せず、執拗に攻めてくる。そのような人は、生活以外のことは何もやっていない人に限られる。自分とは異質な行動に対し、自分を納得させることによって安心しようという魂胆である。大体、何かをやっている人は、根掘り葉掘り聞かなくても、自分との関係性で、およそのことは判ってしまうものであり、又、人のことを詮索する余裕は、ないものである。
 さて、昨年6月に名古屋シネマテークを設立し、それに対する協力が多くの人から得られたことは、これまでの個的なものから、運動的なものへの転化せねばならなくなりました。このことは、これからの問題であり、私一人で作り上げることもないと考えております。