<愛知県成人手帳>'93 若人の広場

 93年1月15日

  私にとっての「はたち」はまさに灰色の世界であった。2年目の浪人生活を東京で送っていた私は、「はたち」を意識する余裕、否、それを考えること自体が恐ろしく、その重圧から逃げ出すため、予備校から映画館へと何時しか足が向くことが重なっていった。
 地方都市の高校に通い、あまり映画を見ていなかった私は、まずスクリーンの大きさに驚かされ、映し出される銀幕の世界は、まさに桃源郷のごとくに自分の置かれた立場を忘れさせた。見た本数はいつしか200本を越える中で、娯楽性だけでなく、人の感情の機微や作家の思いを伝える映画に興味を覚えるようになっていった。
 それから、数年か後、大学に入り、いざ、心置きなく映画の世界にのめり込もうというときになって、名古屋では、商売にならない映画が無視されている現実にであう。そこで大学の仲間と共に、自分たちの手で上映し、その状況を打破しようということになった。会場捜しから始まり、フィルムの手配、資金の調達、チケットの販売など幾多の困難が待ちかまえていた。特に、フィルムが自由に調達できず、暗礁に乗り上げることが多かった。また、資金の不足から度々中断することもあったが、バイトなどで乗り切った。
 若者の異議申し立てが盛んな時代ではあったが、一見無駄と思える行動を続けてこれたのは、上映に関係した者との映画についての語らいや上映を終えた充実感もさることながら、映画を通して疑似体験し、自分の感情を揺さぶる多くの作品と出会い、また、映画に対して同じ想いを抱く多くの人との交流があったからだ。
 そのような中で、母親の死に直面した三男の感情に私自身を照影した小津安二郎監督の『東京物語』が印象に残るし、極貧(?)の中で『三里塚シリーズ』や『牧野村シリーズ』など、人間を愛し、市井の人の逞しさを撮り続けた小川紳介監督との出会いなどが、金銭では得られないものとなっている。
 映画に拘り続けている私の経験から、他者を信じつつ他者に期待せず、趣味の延長線上にあってもかまわないが、己が信じる一つのものと、とことん付き合ってきたことが、小さいながらもそれなりの存在意義を持ったスペースを多くの協力者によって設立でき、自分の人生のプラスになったと、痛感している。