中部讀賣新聞85年6月16日掲載

マイナーの初公開など積極上映

 35_映写機を常備した全国でも初めての自主上映館、名古屋シネマテーク(千種区今池一丁目)がオープンして、今月でまる三年がたつ。
 百人を超える設立資金提供者によって設立されたこのスペースも、ご多分に漏れず、順風満帆というわけではなかった。最初の二年間は、既存の配給会社<この文ではそれを"メジャー"と呼称し、一方、利益追求を第一義とせず、映画を表現手段と考えて制作、あるいは恣(し)意的に輸入しているものを"マイナー"という>も、「ハイ、そうですか」といって快くフィルムを貸してくれるところが少なかった。また、マイナー作品もそれほど多くはなく、企画面での長期的展望が見いだせない状態であった。
 このような模索状態は、反面、各スタッフの趣向に沿った企画が、かなり自由にできるものである。その結果、三百十万円にものぼる赤字を、この期間に作ってしまうことになった。
 この赤字は、カンパをお願いする形で辛うじて埋め合わせることができた。しかし、いつまでも甘えているわけにもいかない。
三年目からは自立することが必要になってきた。この種のスペースが名古屋で自立する難しさをだれもが分かっていても、安易にカンパを要請されることには、やはり抵抗があるだろうと思われるからである。
 経済的に自立するために、まず、上映作品の大まかな方向性を明確にし、企画面におけるイメージつくりを図っていこうと試みた。その方向性とは@マイナーな新作Aメジャーであっても地味で良質な作品Bある種の運動性を持った作品C"ドイツ映画回顧展"のような研究会的な企画・・・の四つの柱である。
 84年度はこの方向性で進めた。このころから徐々にマイナーな作品も増え、メジャー側もフィルムを貸してくれるようになって、この方針が可能になった。スタッフの趣向は"レイト・ショー"(夜九時ごろからの一回上映)という形式で生かすことにした。
 こうして、マイナーな作品としてはお化け的な動員を記録した「アントニー・ガウディー」にも出会うことができた。この作品で、単年度の赤字をクリアーすることができた。
 一方、この年は、「ドイツ映画回顧展」という遠大な企画をも実行した。21テーマ、143作品を上映したこの企画は、名古屋シネマテークの存在なくしては名古屋では不可能であった。しかし、それほど多くの参加者は得られず、名古屋の映画ファンの限界、層の薄さを再確認することにもなった。
 さて、メジャーは、80年に入るころから、それまで無視してきたアート系作品に目を向けるようになった。それは、顧客のニーズの多様化と、大宣伝に踊らなくなったことへの対応策であり、岩波ホールの成功などの影響がある。さらに、名作のリバイバル公開も、ビデオの販売権とセットの形で行われるようになった。東京でのミニ・シアターの開館が、一昨年から顕著になったことは、これらの状況に対応したものであると思われる。
 今や、自主上映とアート系・ミニ・シアターとは、作品面での差異はほとんどなくなりつつある。この現象を"メジャーのマイナー接近"と我々は呼んでいる。そして、情報宣伝力の弱い自主上映は、苦戦を強いられている。
 このような情勢に加えて、今年は、マイナーな作品が旧来にも増して増加する気配がある。それは、"シネクラブ連盟"なるものの設立が予定されていることによる。これは、個人あるいは小規模団体が自主輸入しようとした時、海外の製作者との手続きを代行する組織で、もし、シネマテークがある作品を輸入しようと思い、その費用を準備すると連絡すると、契約交渉から字幕の打ち込みまでに全作業をここがやってくれるというものだ。
 従って、このシネクラブ連盟が設立されれば、恣意的な輸入作品がさらに飛躍的に増加することになり、まさしく映画は一部のプロフェッショナルの手から離れることになる。
 しかし、これらの作品を受け入れる土壌が作られていなければ、掛け声だけで終わることになるだろう。それには、人海作戦による、より強固な宣伝活動の展開、マイナーな初公開作品の連続的上映などによって、映画ファンの掘り起こしを独自におこなわなければならない。
 こうした力をつけることによって、我々のめざす映画状況、すなわち、あらゆる国のあらゆる映画を、自由にいつでも見ることのできる状況を作り上げることが可能になる、と私は考える。そのためには、名古屋シネマテークのスペースも近い将来拡大したいと夢見ている。
 

名古屋シネマテーク代表

 1945年伊勢市生まれ。71年、自主上映グループ「映画の歴史を見る会」を結成。73年、「ナゴヤシネアスト」に改名。78年、第1回年文化会議奨励賞受賞。82年6月27日、名古屋シネマテーク設立。