去年亡くなった詩人の寺山修司さんが「書を捨てよ。街へ出よう」と青年に呼びかけたのは40年代の初めでした。それから約20年。評論家の立花隆さんは「書を抱け、机に向かおう」といっています。「最近の若者は本を読まない」「物事を深く考えない」と、よくいわれます。果ては「電車の中で席を譲らない」「服装も考え方も画一的だ」とも。でも、本当にそうでしょうか。若者にいわせれば「じゃあ。おジンたちは、若い時、何をしたんだ」ということになりそうです。○×式試験、共通一次試験、管理教育・・・・・若者の考え方を画一的にした、といわれる教育制度をつくったのは、確かにおジンです。「若者」論争を展開したいと思います。壮年、熟年、老人からみた「今の若者は・・・・・・」。そして、それに対する若者自身の反論。ワイワイガヤガヤ。世代間で大いにけんかして下さい。一回目は、赤字覚悟で、自主上映運動を続けている「名古屋シネマテーク」代表、倉本徹さんお提言です。(以上、編集部)

 


 
朝日新聞84年7月2日(けんかコラム)

副題

孤立を恐れ孤立化し
作られた話題に躍る


 私が自主上映なるものを始めたのは13年前のことである。名古屋で見たい映画が見られない状態にあったからであり、大人にまかせておけば、決して自分の見たい映画を見せてはくれないと考えたからである。
 「今の名古屋はおもしろくない」と嘆く若者がいる。その責任が自分にもあるということに気づいていない。活動する者には出てこない言葉であり、それを逆手にとってしか名古屋では闘うことができないことを知らない。
 名古屋で自主企画する場合、そのほとんどは赤字となる。赤字でもなおかつやり続けるということは、ある種の居直りであり、状況への永遠の怒りである。映画から離れることは自分自身の存在理由を失うからだ。月日は流れ、一昨年の6月、ついに待望の自主上映館「名古屋シネマテーク」を設立し、それまでのジプシー上映に終止符を打った。設立と運営にあたり、百人を超える人たちから見返りを期待しない資金提供があり、若い社会人、学生からの無償の労働提供があった。
 今日の若者は消極的で活気がなく、打算的であると嘆く大人がいるが、私の身近なところでは、そのような若者はあまりいない。それは自主的に参加した者の集まりであり、映画という共通項があるためでもあろう。
 彼等はボランティアに近い形ではあっても、自分の能力の範囲内でやれるだけのことはやっているように思われる。
 このような若者は、等身大で活動している現場には必ずいるものであり、「今の若者は・・・・・・」ときめ付ける「老人」たちの周りにはいないだけに過ぎない。ただ人数的には少なくなっているのは確かな事実であろう。
 では、それ以外の若者はどうであろうか。どんよくにあらゆる映画を見ようとする若者もいれば、独自の選択眼をもって行動するものもいる。
 しかし、ほとんどの若者は、作られた話題に翻弄され右往左往している。彼らにとっての映画とは、井戸端会議のための素材であり、仲間外れを避けるための手段でしかない。
 このような若者を最大の得意先としている映画界も哀れではあるが、孤立から逃れるため、流行という名の商品に身を包み、大人たちの商業主義にあやつられてしか生きられない若者も、また哀れである。
 今や映画はテレビ(ビデオ)で見られる時代である。金を払って映画館まで足を運ぶ必要はない時代である。だが果たして、映画館での感動をテレビで代替出来るものであろうか。
 テレビは、私室の中で自分を孤立化させ、すべての感動は自己完結してしまう。他人との交わり、他人との出会いのないテレビに私は満足出来ない。
 映画に夢を託するもよし、映画で疑似体験するのもよし。しかし、映画は決して「青春」の一里塚で終わるものではない。十年後に再見した時、きっと自分の浅はかさを発見するような作品に出合うだろう。
 たかが映画、されど映画。