毎日新聞82年9月27日


 続きもの「私とモダン・ダンス」はきょうで終わります。かわって次週からは、名古屋シネマテーク代表、倉本徹氏の「映画新時代へ」を連載します。倉本氏は、ナゴヤシネアストによる自主上映活動十余年の実績をもとに、さきごろ拠点となる“専用スペース”名古屋シネマテークを設立、運動の新しい局面を迎えたところで、本欄には、シネアスト運動の一応の総括を試みた「映画を映して」('78年、五回)以来の登場です。映画青年が語るひと味違った映画談義にご期待下さい。
                                           (編集部)




毎日新聞82年10月4日




 今年六月に名古屋は今池の地に上映資料館・名古屋シネマテークを開設した。1971年(昭和46年)一月に栄の中区役所ホールで、大学映画研究会主催の上映会を私が企画してから11年5ヵ月にして、念願の専用スペースを得たことになる。
 映画は映画館で見るものという既成概念からすれば、私たちの行ってきたこれまでの貸しホールでの上映活動は、映画を上映してきたのではないのかもしれない。
 しかし、映画興行界に過去の力がなくなって、私たちの望む映画を公開しなくなった70年代、私たちの活動により、その欲求のかなりの部分が満たされてきたと自負している、映画の不思議な魅力にとりつかれた私たちにとって、ある時期の私の心の支えとなった映画たちを、私たちは見捨てることが出来なかったのである。
 全国各地には、これまでの私たちのような貸しホールでの上映会を半定期的に行っているグループはかなりの数にのぼっているが、自前の専用スペースを、それも35ミリ映写機(映画館のフィルム・サイズの上映が可能)を常備し、興行場としての許可を得ているのは、恐らく全国でも初めてのことであろう。
 保健所申請40席(最大収容人員57)の小さなスペースではあるが、多様化しつつある映画の輸入形態、製作形態の作品をフォローするには、今のところこの規模で十分である。このスペースに対して、全国で活動している自主上映グループの期待の声と羨望の熱きまなざしが、ひしひしと伝わってくるようである。
 このスペースの設立のために、70人を超える人々から“浄財”とも言える資金協力があり、また、スペースの基本設計やデザイン関係、賃仕事として内装工事を請け負ってくれた幾多の人々の有形、無形の協力により、開設にこぎつけたことは、11年の私たちのやってきた行為に対する一つの財産の証として、感慨無量である。ここにこれらの方々に感謝の意を表したい。
 さて、オープンしてから三ヵ月間に上映した作品は、旧作をも含め長編32本、中・短編26本を数え、封切館の一年分に匹敵するが、その中のいくつかを挙げてみる。
 「死海のほとり」「ハンガリア狂詩曲」「一万の太陽」(以上ハンガリー映画)「イタリア式離婚狂想曲」「王女メディア」(以上イタリア映画、協力上映)「テルレスの青春」「突然裕福になったコンバッハの貧しい人々」「とどめの一発」「ある道化師」(以上西ドイツ映画)「世代」「砂時計」「すべて売り物」(以上ポーランド映画)「早地峰の賦」「十六歳の戦争」「西陣」(以上日本映画)・・・・・・。
 これらは、本紙でも紹介されたものであるが、何%の読者の方が目にとめられ、見られたことであろうか。参加者数(オープニングからの合計)四千人から考えて、おそらくゼロ・コンマがつくほどの方しか記憶には残っていないものと思われる。
 しかし、一般映画館で上映された「Uボート」「鉄の男」「メフィスト」「さらば愛しき大地」などになると、見られた読者もかなりの数にのぼり、聞いたことを思い出す方も多いだろう。
 では、私たちが紹介した作品が質的に見劣りするのかと言えば、決してそうではないし、娯楽性に欠けるのかと言えば、そうでもない。そこにあるのは話題性の欠如と、それをカバーするだけの情宣活動の脆弱さ(私たちの責任)に起因するものと、私は思っている。
 情報過多と繰り返し流されるイメージ・コマーシャル、めまぐるしく移り変わる流行の渦の中にあって、多くの人の目に触れず、摩耗し、忘れられてしまう幾多の映画たちに、私は限りない愛情の念を感じると共に、一人でも多くの人々に見てもらうための紹介作業が十全に行われることが、名古屋シネマテークに課せられた“仕事”であると、考えている。
 何分にも活動に大衆性がないため、今週から八回にわたって書かさせていただく文章に一般性のない話や、固有名詞が登場し、また、恣意的感情にまかせて出てくる悪口雑言の類も多々あることを、お許し願いたい。





毎日新聞82年10月18日


 映画を見出すきっかけは人さまざまであろう。
 私の場合、大学浪人中に始まる。東京の予備校に通っていた時で、一人で楽しめる映画は、受験勉強からの格好の逃避場所であった。
 見始めたころは、寮の近くに邦画二番館の市川映劇(千葉県市川市)があったせいで、東映、大映の作品をよく見た。「不知火検校」や「網走番外地」などが印象に残っている。別の洋画館でみた「エデンの東」や「ウェストサイド物語」「シベールの日曜日」「シェルブールの雨傘」などには、テレビにないダイナミックさとディテールのきめ細かさに感動した記憶がある。今日の当館の上映傾向から比べると、隔世の感がする。
 飯田橋の佳作座や渋谷の全線座、池袋の文芸座、人生座、さらに京橋のフィルムセンターへ足をのばすうちに、単なる時間つぶしの、享楽としての娯楽から、創作者(監督)の内面の表現物として、映画を捕らえるようになっていた。その過程で、映画史、映画理論、評論集などを読むようにもなった。
 ひょんなことで、いや、やっと言うべきか、名古屋の大学に入った。すくさま大学映画研究会(映研)に入り、さて、心おきなく映画を見ようかという段になった。
 映画関係書を読んでいると、どうしても見知らぬ過去の作品名が気になり、それを実現したいと思うものである。しかし、名古屋にはそれらをかけている名画座が存在しないことがわかった。
 一回生のころはまだ名宝文化があり、ATG等の作品を公開していたので、ある程度の欲求は満たされてはいた。だが、その名宝会館も1972年に閉鎖され、今はない。
 そのころの映研はサロン化し、活動が停滞していた。それならば活性化のためにも、自分たちの見たい映画を自分たちの手で上映して見よう、ということになった。時は71年1月のことである。
 最初に取り上げた作品は、大島渚の「愛と希望の街」と「日本春歌考」であった。大島渚とフランスのJ・L・ゴダールの作品は、自分たちの時代と心情を仮託するものとして熱狂的に受け入れられていた。“大島”“ゴダール”は、映画青年を自称する者の一つの合言葉になっていたのである。
 今の私にとって、大島渚は最も忌み嫌う存在となっているのだから、世の移り変わりを感じざるを得ない。何故、大島に敵対し、憎悪するのかと言えば、初期の大島には少なくとも時代を象徴し、彼なりに世俗に対する義憤を表出した作品を創り出す姿勢があり、心底を震撼ならしむるものがあった。だが、今の大島には形骸化したポーズしか残っていない。精神を伴わないにもかかわらず、尖鋭さを売り物にした大島を、私は許せないからである。
 その年の11月からは、月に一回の割で定期上映会をもとうということになり、映研有志が主体となったナゴヤシネアスト(最初は映画の歴史を見る会)を発足させた。その呼び掛け文に「文化不毛の地と言われる名古屋に住む私たち・・・・・・」という責任逃れの常套句がある。今、読み直してみると気恥ずかしき文面ではあるが、それなりに気負いがあったと思っている。
 アルバイトをしては資金をため、吐き出しては金をためるために上映を休む、という繰り返しが続いた。就職した二年間は、私の手から完全に離れた期間もあったが、会社との折り合いの悪さから退職し、またぞろ映画に戻ってしまった。76年4月である。
 その時点では、映画にひかれていたからというよりも、学生時代になし得なかった規模と形態での上映を画策すれば、二百万都市・名古屋での運営は可能ではないか、との淡い予測の下での活動再開でもあった。当然、赤字が続いて、別の生計の道を立てながらの上映である。
 そして、今年六月には積年の念願でもあった専用スペース・名古屋シネマテークを開設した。
 思えばこの11年。私は倍々ゲームを繰り返してきたのにすぎないかも知れない。あの規模で失敗したのだから、次にはその倍の資金をかけてやればどうにかなるのではないか、という責任転嫁の思考回路である。
 しかし、これを機に倍々ゲームに終止符をうち、確たる理念をもって単なる活動ではない映画運動を展開せねばならない、と考えるようになっている。





毎日新聞82年10月25日


 1960年代まで、映画の輸入は商業主義的配給会社と、その周辺に巣食うプロたちの独占物であった。
 例外的に旧左翼陣営によるソ連映画を中心にした古典の単発輸入は行われてはいた。が、量的には少なく、かつ政治運動の尖兵として使われていたので、日本のシネアスト(映画ファン)たちにとっては、恩恵を受けるところまではいっていなかった。
 しかし、海外旅行が簡単になされるようになるのと軌を一にして、映画の輸入形態にも徐々にではあるが、変化が表れ、商業配給会社の独占状態から解放されるようになった。それは当然、凋落する観客動員数のため、既存の配給会社の輸入姿勢に一作必勝主義がはびこり、少数者の意向を切り捨てるようになったことにも遠因している。
 映画評論家(研究者)にまじって、旅行者などからも海外の映画情報がもたらされてくる。つんぼさじきにおかれた日本シネアストの中に、それらの作品を輸入しようとする者がいても不思議ではない。また、配給会社にまかせていてはじ自国の映画紹介がなされない、との危惧をいだく国があっても当然である。さらに一国との深いつながりがある企業の中には、商売の見返りに関係国の作品を輸入する場合もあるだろう。
 このようにして、映画の輸入紹介は雑多な形態で行われるようになってきた。
 キネマ旬報の資料を私流に分類してみると、71年には商業主義的配給会社対その他が221対4であったのが、81年には199対49になっていることでもわかる。
 ここで、これらの形態について多少詳しく触れてみよう。
 まず、在日大使館、領事館による自国文化の紹介作業の一環としての機能と、映画商業見本市としての機能をもつ国別映画祭形式である。
 この形式は古くからあるが、最近では、カナダ映画祭、スイス映画祭、ポーランド映画祭、ハンガリー映画祭、およびチェコ映画祭などがある。
 これらの多くは、数ヵ月後には本国返還になる運命にあり、全国的に上映される機会は少ない。大使館及び各国文化省が積極的に加担する場合もあるが、そのほとんどは、日本の評論家らの映画関係者個人の粘り強い交渉の結果によることが多い。
 また、半官半民の色彩が強いドイツ文化センターによる西ドイツ映画の断片的紹介作業も、この中に入るのかも知れないが、ある程度のロイヤリティー(上映権)を支払っての輸入のため、数年間、日本に留め置かれ、各地での上映会が頻繁に行われている。
 中国映画、朝鮮映画もあり、これらは在日中国人、朝鮮人の諸団体が中心になっている。今年初めて行う国際交流基金による「南アジアの名作を求めて」のようなものもある。
 さらに、川喜多記念映画文化財団はインド映画やエジプト映画などを輸入公開しているが、これは商業配給会社の一変形と見るべきであろう。
 中小商社の中には貿易相手国の作品を本業の商品とともに入れてくることがある。フランス映画「少女ムシェット」「眼を閉じて」のコロネット商会、ブルガリア映画「炎のマリア」の三陽商事などであるが、量的には多くなく、継続性もない。この分類の中に入るが、ヨーロッパの旅行者、研究者の便宜を図っている欧日協会は、西ドイツ映画を精力的に紹介している。「ある道化師」や「カスパー・ハウザーの謎」がそれである。
 われわれも参加している自主上映の全国組織であるシネマテーク・ジャポネーズはフィルムの共同所有の発想の下に、過去四年間に「すべて売り物」「結晶の構造」「砂時計」のポーランド映画、「一万の太陽」のハンガリー映画を輸入公開している。
 さらに、単発の上映委員会形式もある。最近、岩波ホールで公開されたベトナム映画「無人の野」や、女性たちによるカナダ映画「声なき叫び」などがそれである。
 同じ委員会形式の中では、「第一の敵」上映委員会によるボリビア・ウカマウ映画集団の紹介は注目すべきであろう。これは翻訳を業とする一個人が、旅行中に見た映画に魅せられて、製作者と交渉の結果、特異な条件で輸入されてきている。それは収益金の全額を製作者に還元するという方法である。これは正しく、既成の商業理念を根底から覆す形態であろう。彼はさらに「ラテン・アメリカ映画センター」の設立を夢みている。
 このような地道な営為が、昨今の西ドイツ映画やポーランド映画の商業配給会社による日本公開を可能にしたと言っても過言ではない。
 しかし、輸入ポリシーが一時の流行に左右される商業配給会社の姿勢が続く限り、その露払い的存在をいつまでも甘んじて受けることのないよう、これら紹介行為者は心がけていかねばならない。
 情勢が変われば、また無視され、切り捨てられる“映画たち”。“彼ら”がいつの時代にも紹介され続けるだけの輸入形態、上映形態を全国的に確立していかねば、私たちの望む映画の永続性はない、と考えている。





毎日新聞82年11月1日


 日本の大手製作会社が監督予備軍としての助監督の社員採用を中断して久しい。
 1976年、日活が大卒新規採用した時、31人に対して400人余の応募があり、映画に魅せられた若者の潜在化が進んでいる。
 大手に採用されない彼らの多くは、独立プロやピンク映画界にもぐり込んだり、自主製作によって自分の夢を実現しようとしている。あるいは今村昌平が主宰する横浜放送映画専門学院などで学ぶ者もいる。
 自主製作の場合、8ミリが主流であるが、最近では16ミリによる製作が幅をきかせつつある。16ミリ作品の中では、山本政志の「闇のカーニバル」、矢崎仁司の「風たちの午後」などが頻繁に上映され、観客を集めている。
 そして彼等の中から、大手配給会社との提携による劇場用35ミリ映画を製作する者が現れた。「オレンジ急行」の大森一樹、「の・ようなもの」の森田芳光、「狂い咲きサンダーロード」の石井聡互などがそれである。これはスター誕生などで素人歌手が一本釣りされる現象にどこか似ている。
 また、独立プロ・ピンク系からは、古くは「青春の殺人者」の長谷川和彦、「正午なり」の後藤幸一がおり、新しくは「ガキ帝国」の井筒和幸、「オン・ザ・ロード」の和泉聖治などが既存配給会社との提携で、商業ルートに乗せている。
 しかし、提携作品の場合、興収のほとんどが興行サイドと配給サイドに吸い上げられ、製作サイドには興収の一割程度しか還元されないこともあるという。ATGで公開した某若手監督は、予想外の借財を背負い、肉体労働による日銭で借金を返済したという。彼はなおも何時作れるかわからぬ次回作のために、決して定職に就くこともせず、CFなどの映像で生計を立てようともしない。操を守る精神である。ここに監督気質の一面を垣間見ることが出来る。
 このような状況があるため、既存の配給システムに乗せず公開する方法を、独立プロの一部では模索している。
 シネマ・プラッセトは産地直送方式と称して、自前の仮設ドームによる上映を決行し、鈴木清順の「ツィゴイネルワイゼン」や「陽炎座」などを公開した。工藝社は横山博人の「純」を新宿東映ホールで借館による自主上映で成功を収め、プロダクション群狼は柳町光男の「さらば愛しき大地」を既存の配給ルートに頼らず、自ら各地の映画館に出向いて上映し、中間マージンを省く方法を選んだ。
 このようにして外国映画の輸入と同様、日本映画の製作、配給、公開も多様化している。
 キネマ旬報の資料によると、71年には邦画五社(松竹、東宝、東映、日活、大映)による製作配給本数(長編)が167だったのに対し、ATGを含めた独立プロの35ミリ作品(ピンクは除く)は14作品、81年には104(うちロマンポルノ45)に対し、27作品となっている。これを16ミリ作品までに拡大し、かつ邦画三社(松竹、東宝、東映)にかかる作品の半数以上が独立プロ(分離子会社は除く)との提携作品であることを勘案すれば、既に大手の独占時代は終焉しているのである。
 58年に十一億三千万人を記録した観客動員数は、昨年一億五千万人まで落ち込んだ。映画館数も七千四百館から二千三百館に減少している。人口十万人未満の454都市の中で、映画館がない都市が193もあり、十万人以上の193都市の中でも、23の都市に映画館がないという。
 しかし、映画評論家・白井佳夫のレポートによると、映画館のない九州の温泉郷で七年前から開かれている湯布院映画祭には全国から五日間で延べ三千人の映画ファンが集まり、議論が沸騰したという。
 当然、全国各地にも自主上映という形で、自分たちの見たい映画を上映するグループが多数存在し、映画ファン層を下支えしている。ここに参加する観客数は前記の統計の中に入っていない。昨年ナゴヤシネアスト(名古屋シネマテークの前身)に参加した約一万人もその中に含まれていない。
 統計上の数字には現れないところで、映画の支持層は確実に増えている、と私は信ずる。そこで上映される映画は、主催者の思いが強く反映したものが多く、映画館での作品よりも参加者の期待を裏切る確率が低いからでもある。
 大手製作・配給会社が、お子さまランチ的映画と、コケおどしの大作映画を提供し続ける限り、映画産業は確実に衰退する。先人の偉大なる実績と自信を今や見直さねばならぬ。自社の製作・配給する作品に自負と愛着をもって取り組むことが出来るものを作らない限り、“良質”の映画ファンに完全に背を向けられる日が来ることは遠くはない。
 その日のために、私たちはガンバッていかねば、と思っている。





毎日新聞82年11月8日


  名古屋は“文化不毛の地”とか“白き街”“偉大なる田舎”と侮辱される反面、“芸どころ”と称賛されることもある。
 これらは近視眼的に、かつ無責任に見れば正解といえよう。だが、名古屋で“真”に活動する者にとっては、このような呼称はどうでもよいことであり、一つの情況を逆手に取って、いかに利用していくかが大切である。
 名古屋は江戸・尾張時代からもつ極端な排他性を今日まで残存し、流動性も低かった。しかし、昨今の人口動態傾向は他都市に比して決して低いものではない。過去五年間の他府県からの転入を人口比率で計算すると、名古屋は年4.6%に対して、東京区内5.3%、大阪市4.7%、京都4.0%となっている。だが、国公立大学の地元出身者比率が高水準であることを勘案してみると、いまだ土着性は維持されているといえよう。
 概して、西洋文化である映画、演劇、絵画等は個的な鑑賞物であり、外見上は身につくものではない。これに対し、伝統芸能である踊りや茶道、華道などは家族単位の鑑賞物であり、嫁入り道具の一種となるものである。家元制によって飯の種になる可能性もあり、親にとって安全な投資の対象ともなる。
 この現象は個人の預金高が日本一であることにも表れている。反面、結婚式や新婚旅行には金に糸目をつけないとも言う。血縁関係の絆を形式で強く結びとけようとする意図があり、個にしか収束しない閉塞した価値観である。
 このことは経済活動にも言えよう。名古屋(愛知)に本社のある企業には無借金経営が多い。石橋をたたいても渡らない経営であり、保守性の強い経営である。この体質は自社ビルに“表現文化”に供するような維持・管理に金のかかる貸ホールを併設しようとしないことにも現れている。このような中部財界が、国際都市名古屋を標榜するのだから、どこかで馬脚をあらわすのは自明である。
 同じようなことは名古屋の文化行政・文化施設にも言える。今。建築中の名古屋芸術創造センターは、その名に反して創造活動に供する代物ではない。内装や舞台装置のみならず、その収容人員が七百という点と、閉館時間が九時台という点にある。
 名古屋で創造活動をしている個人・団体で、一度に七百もの参加者を集められるのはほとんどない。ただ、踊りなどの温習会的なものは別であるが、私の価値からすると、これ等は創造活動とは認め難い。何故なら、創造とは個的な喜怒哀楽を少なくとも表現し、伝えるものであると思っているからである。
 創造活動をする者にとって必要なキャパシティは二百から四百であり、三日から七日間発表出来ることの方が重要である。さらに、創造活動には議論百出が日常的に行われるものであり、それが起こった時、途方もなく時間がかかり、体力消耗戦の様相を呈することが少なくない。ここのところが、部課長クラスの役人、市長・市議には全くわかっていない。
 さて、話を名古屋の映画館に転じてみよう。
 名古屋には映画館が58館ある。その中で、名画座と呼ばれ、館独自の思想をもって番組を編成しているところは、宮裏太陽、浄心ハイツ、SK東映、マキノ映劇、オーモン劇場しかない。
 映画を見始めるのは、通常、高校・大学時代である。この時代は時間があるが金がないという状態におかれている。私の場合もそうだったが、見始めのころはガムシャラになんでも見ようとするものであり、その為には安い映画館と、時代に耐え抜かれた古い作品があることが必要不可欠である。
 大体、この時期は一年間に二百から三百の映画を見てしまう。この中から、自分なりに映画のおもしろさを肌で感じ、作品の選択眼が身体で作られるものである。
 名古屋には、中日本興行、ヘラルド興行という地域密着の興行会社がある。もし彼等が、小さな劇場を、大人の目にも耐えられる名画座に供することを考えれば、名古屋にも映画ファンが大きく育ってくるものと思うのだが、その努力は少ない。決して、たのきん映画とか角川映画では“真”の映画ファンは育たないのである。
 では、名古屋シネマテークにその役割が果たせるのか、と問われれば、NONである。それは上映する側が自ら見たい作品をかけることを基本方針においた映画ファンの集まりであるからであり、シネマテーク一館では、かけられる作品の絶対量が極く限られているからでもある。
 やはり、五年後、十年後の展望をもって映画ファン育成に取り組むことが、それで生計を立てている者のつとめであると思うのだが、いかがでありましょうか。





毎日新聞82年11月15日


 私が専用スペースの必要性を感じるようになったのは、実のところ個人的原因によることが大きい。
 それは、1979年1月2日早朝、上映会当日に尿道結石で倒れたことに始まる。それまでは身体に自信があり、一人でもやっていけるように思っていた。だが、この“事件”を境に、まずスタッフの複数制を考えるようになった。
 さらに寄る年波(現・37歳)には勝てず、身体の回復力のなさを痛感するようにもなり、準備と後片付けで想像以上の労力と精神的苦痛を伴う会場レンタル形式での上映活動は、四十歳が限界であると認識するようになったためである。
 このころからノン・シアトリカル(非劇場用、非商業用)な作品が、陸続と入ってきたことも大きな要因となっている。ノン・シアトリカルな作品は、限られた短期間しか日本にはなく、名古屋で紹介するとなると、会場レンタルでは確実にホローすることは不可能である。事実、見送った企画も多々あった。
 また、73年に私の映画観に多大なる影響を与えた「三里塚・辺田部落」のような運動性を帯びた記録映画を定期的に見ていきたい欲求も増大していた。記録映画は基本的には赤字となるものであり、その経費を縮小するには自前の“小屋”を持つ以外にはなかった。
 小屋を持つと言っても、場所を借りるためには権利金、敷金がいる。当然、工事費もかかるだろう。その資金をどうするかが問題であった。権利金、敷金の自己資金さえあれば、工事費等は有志から集められるであろうことは、若干の不安が残るとしてもほぼ予測できる範囲内にあった。が、78年から81年まで、一年に百万円を超える赤字を計上している状態では、あきらめるほかなかった。
 81年夏には、私の半生で最大(?)の個人的問題が起こり、責任転嫁ではあるが、映画を憎悪し、上映活動そのものをキッパリやめようとさえ思っていた。
 そのような時、好条件の話が舞い込んできた。今年一月のことである。広さも128平方メートルと理想的である。
 スタッフにも相談し、この話に乗る方向で進めてみようということになった。内装の基本設計を豊橋在住の山田氏に依頼し、同時に会員等へ呼び掛け文を郵送した。新聞社からも取材があり、資金提供承諾も増えてきて、一千万円の調達が見込めるまでになった。
 ここまでは順風状態であった。だが、問題が次第に現れてきた。階下のキャバレーの音が騒音となって鳴り響いている。高さが考えていた以上にない。工事費が予定の1.5倍以上かかりそうだ。もはやこれまでと観念したのは五月も初めのころであった。
 五月中旬、検証しなおすことになった。高さは限度いっぱいで可能との結論。騒音は完全に防音出来るかどうかは不確実。工事費は工務店をかえ、賃仕事としてやってくれる人を捜し、故郷である伊勢からみてもらって解決した。
 六月六日、工事のクワ入れが行われた。もはや戻ることは出来ない。あとは官庁との折衝と、本当に資金が集まるかどうかの不安が残る。
 消防署は意外とスンナリといったが、伏兵として、保健所が難問を呈示してきた。「客席は一列八脚まで。最後部には通路をもうけよ。便所には便器を三つつけろ」
 前の二つは妥協して解決したが、便所の問題は抵抗を試みる。興行場法では百席につき三個の便器が必要だという。四十席だから二つで十分ではないか、どうしてもというならば溲瓶(しびん)か御虎子(おまる)を用意する、と執拗に食らいつく。だが、首をたてには振らない。やむを得ず湯沸場に小便器をつけて解決した。
 その後、建築局から百平方メートル以上だから用途変更せよ、とのクレームが入る。用途変更となるとビル全体を改装しなければならない。私は二月の段階に、すでに建築局で打診している。その時の担当者が、三百平方メートル以下だから勝手にしてちょ、と言ったと説明するが、そんなことはない、と水かけ論。
 この問題は担当者がきて、映写本来の用途以外のスペースが五十平方メートルもあるため、OKが出る。
 こうして晴れて“興行場”としての許可が6月26日に下りて、27日にオープンする。
 ある人は何故順法したのかというが、所謂、違法行為という名のトラブルで、協力者に迷惑がかかるのを避けたかった為に他ならない。
 あとはこのスペースをいかに維持、運営していくかにかかっている。これまでならば、金がなくなればやめればよかったのだが、今後はそのようなわけにはいかない。喜びと共に苦悩が始まるのを覚える。
 十月末日現在、少しは不足はしているが、一千百万円弱の資金が集まった。短期的に、それも無鉄砲な計画に、これ程の“善意”の協力を得られたことは、一時であれ映画を憎悪したことを恥じると共に、ここに再度感謝したい。





毎日新聞82年11月22日


 これまで長々と基調報告と経過報告を繰り返してきた。今回は、これらを踏まえて整理するとともに、映画をどうとらえ、どのように取り組んでいくかをのべてみたいと思う。
 一、映画は娯楽(享楽)として資本主義の下で発達してきた。そのため、見せ物的色彩が今なお強く残っている。だが、資本の論理とは裏腹に監督の作家性、主義主張が強く表出されるものもある。このような作品の興行価値は、一般に低く、繰り返し上映される機会は少ない。時には既存の流通機構からはじき出される運命すらある。彼らをセレクトし、紹介、再紹介することが、名古屋シネマテークの一つの仕事である。
 二、映画は他の表現文化に比して、資本投下の額が大きい。そのため、資本の回収を効果的に、短期間に行える流通機構が作られた。ブロック・ブッキング制である。そこには映画は独占的商品としてとらえられ、機構維持のため外部への貸与は極力抑え込まれる。だが、映画を作家と表現物としてとらえ、見れる状況を作り出そうとする者にとっては、妥協しながらも、その機構の打破の道を模索しなければならない。
 専用スペースを設立したことは、その道を切り開く端緒にはなっているのである。
 三、映画は享楽のための消耗品であるとの考え方が、日本では強かった。そのため、製作会社は自社フィルムすら、その保存には積極性はなく、戦前の作品のほとんどは残されていない。文化行政は、ようやく1968年に国立フィルムセンターを設置して、フィルムの収集・保存の作業を開始した程で、欧米諸国との認識の格差は計り知れない。
 そこで収集された作品は「館外持ち出し禁止」を基本原則としているため、東京外に住む者との機会不均等はいかにも国家機関の属性らしく、その本性の一端を表している。
 逆に、当館も収集作業を行わねばならないのであるが、収集費用の関係で、文献の収集から着手し、開放している。現在、単行本が650冊、雑誌が1150冊にのぼり、名古屋における公立図書館よりも充実しているはずである。しかし、日本で発行されたものの二割にも満たないため、提供者等の出現を待ちたい。
 四、映画は視覚文化であり、聴覚文化である。活字文化等の他の表現文化よりも人々に強烈なインパクトを与える。それがプロバガンダとして政治に利用されてきたが、今日では同じ視覚、聴覚文化である、よりマス・メディアでもあるテレビジョンにその座を明け渡し、テレビが権力側の国民操作の具にされている。
 自己主張(表現)する者にとって、テレビを利用する術はない。電波法による国家規制があり、クライアントという名の資本の圧力があるためである。故に、体制に異議申し立てする者は、映画をその武器にすることになる。そのような作品が恒常的に上映される場は、名古屋には少ない。ここに名古屋シネマテークの設立と存在の意義がある。
 五、映画は世界のあらゆる国で制作されている。だが、日本に紹介される作品は、アメリカ、西ヨーロッパのごく一部の国の一部の作品でしかすぎない。そこには資本の論理(商業主義、営利主義)が優先する余り、なじみのなさからくる興行上の失敗を危惧するからにほかならない。
 昨今、この状況を打破しようと、様々な形での紹介作業が行われている。それが、一つのうねりとなって既存の流通機構に拮抗しつつある。これに呼応して、全国各地での受け入れ体勢を確立していくことが、このうねりをさらに大きなものにすることが出来る。
 名古屋シネマテークは、まさに、その尖兵として、また、実験的な意味合いからも重要な位置にある。これが成功するか否かによって、全国に波及するかどうかが決定すると言っても過言ではない。それも一人の力ではなく、八十人を超える協力で設立した点も、全国に広がっていく可能性が秘められている。
 六、映画は視覚、聴覚文化であると共に、24分の1秒の瞬間的な時間の集積でもある。そのため、一つの作品の評価は、他の表現文化に比してより分かれる。百人いれば百通りの評価があると言えよう。極端な場合、見る年代、見る時の精神状態において同一人であっても評価が変化するほどである。
 百人百様の意見のぶつかる中で、一つの映画を通じて、私たちの人生がより深く、より透明に、より孤高に輝き続けるものであることを信じて談話室をも併設している。
 以上が、1982年における私の映画のとらえ方であるとともに、名古屋シネマテークに対する私の考え方でもある。
 一つの映画に百人百様の評価があるように、決して上映スタッフ、出資等協力者の全体意見でもない。一人ひとりが全く別の考え方をしているのが、このシネマテークという“組織”あるいは“場”にはふさわしい。コピー人間の集まりになることだけは、避けなければならないと思っている。





毎日新聞82年11月29日


 6月27日にオープンしてよりはや五ヶ月が過ぎようとしている。11月23日までの企画数は19、上映作品数は長編53、中短編39にのぼり、上映日数は85日となる。
 上映作品の中には名古屋初公開が長編16、中編16含まれ、封切館に相当し、上映作品数では名画座(週替え)に匹敵する。そして、この間の入場者(参加者)数は、六千人を超えている。
 運営状態は当初予想した月間20万円よりも大幅に赤字を計上し、オープンから九月末までの三ヵ月間に109万円弱、十月は15万円強を記録した。
 その原因はいろいろ考えられるが、根底にあるのはオープンの話題性を過大評価して、そのうえにあぐらをかいてしまったことにある。そのため、フィルム代等の経費を抑えず、企画にポピュラー性を加味しなかった。さらに、草の根的な情宣活動を怠ったことも大きな原因になっている。
 しかし、九月初旬にはその反省を行い、十一月企画からは当館の基本方針(見たい映画を上映する)を変更させない範囲内で、若きスタッフの手でポピュラー性をもたせた作品のセレクトを行った。そのころより、スタッフの動きにも緻密さが加わり、草の根的な情宣活動が少しずつではあるが行えるようになってきた。
 さらに十月より、新聞日載(映画欄)にも空きスペースがある限り掲載(本紙には空きがないため未掲載。有料)するよう心掛けており、その効果は徐々にではあるが表れてきているように思われる。これを人は商業主義と言うが、いまだ知らぬ新しい映画層を開拓するには必要な方法の一つである。
 このことは会員数の増加にも現れている。会場レンタル上映のころの会員数が270人であったのに対し、現在ではシネマテーク会員(設立資金提供者、一口十万円)が80人、シネアスト会員(シネマテーク鑑賞会員、年額二千円)が281人と、合計361人を数え、月に20人の割合で増加し続けている。
 十一月からは赤字の幅も縮小されてきており、来年四月からは早くも運営が安定するのではないかとの淡い期待が立てられるまでになった。これには工事費等の減価償却は含まれておらず、スタッフ等のボランティア的行為があっての話ではあるが、まず運営を軌道に乗せた段階で、このスペースをよりダイナミックなものにするため、専従制を考えている。
 私が専従することは、私の中にも抵抗があり、かつ、出資協力者等の善意をも裏切るように思われるため、現有スタッフの一人を専従にする予定である。当然、ボランティア的スタッフの存在が大きなウエートを占めるのは言うまでもない。
 現在、金・土・日の三日間を基本上映日とし、他は休館、貸館、試写日に当ててはいても、現実には活用されてはいないし、それに応えるだけの人的配置は出来ていない。そのため、残りの四日間も上映可能日に当てることは、運営の安定からも必要であり、かつ貸館などの便宜がいつでも行える状態にすることが、名古屋シネマテークの設立意図であるフリー・スペース的存在を加味するうえからも必要であろう。
 このように考えると、趣旨とは逆に営利主義に陥るのではないかとの危惧を抱かれるご仁もあろう。それは心配するには及ばない。専従者とボランティア的スタッフが、見たい映画を上映するという基本原則を損なわない限り、名古屋シネマテークの精神と作品傾向とは変化することはない。余剰金が出た時どうするのか、との課題もある。その場合には理事会で討議されるであろうが、まず、外国映画の直接輸入に着手することが第一であり、第二には旧作フィルムの収集及び文献資料の充実を計っていくことが肝要であると思っている。
 さらに、78年『夢あざけりし風のように』、80年『沙羅』を後藤幸一主宰の映像名古屋と共同製作した経験を生かした形での映画製作も必要であろう。また、今年九月にはユニテ(名古屋ウニタ書店)と共同で、大島渚の「愛のコリーダ」原作問題を引き起こした深尾道典のシナリオ「ある女の生涯」を出版しており、映画関係書の出版活動も必要である。
 批評活動の一環である機関誌の再刊も行わねばならない。上映・批評・製作の三位一体化した活動こそ、映画運動の神髄である。いずれにせよ、やっと専用スペースを持ち、ようやく来年三月まではつぶさなくてもよいメドが立ちつつある今日ではあるが、さらに幾多の人の協力の下、より大きく、より堅固なものにしていくことが、全国で苦闘している自立した自主上映グループに光明を点すことにもなる。
 それが、流行に左右されぬ映画状況を作り出すことにもなり、享楽としてではなく表現文化としてとらえる“良質”のシネアスト(映画ファン)を増やすことにもつながる。
 今、そこに、私たちの手の届くところに、新しき映画の時代は確実に来ているのである。
                                                (おわり)