中部讀賣新聞82年6月22日

 私が自主上映なるものに携わったのは1971年1月、大学の映画研究会に所属していた時であった。以来11年の歳月が流れ、このたび、拠点たる専用スペース・名古屋シネマテークを今池の地に開設する。最大収容人員60名の小さなスペースではあるが、35ミリ映写機も設置し、資料室と談話室を併設した力と生命を持った映画運動の拠点として大きく羽ばたくものと確信している。
 そもそも専用スペースの必要性を感じるようになったのは、三、四年前のことだった。それは私自身の体力的衰えもさることながら、企画数の増加(81年度は23企画、98作品)と共に企画設定がスムーズにいかくなり、個々の企画がなおざりになってきた為であった。また、既存興行ルートに乗らない作品が頻繁に日本に紹介されるようになって、名古屋での受け入れ体制を完備する必要性が痛感されだした為でもあった。
 さらに、自主上映というものと一般映画館との質的相違を認識しない初めての観客をつなぎ止めるには、会場を転々とすることでは限界があり、出会いによる会話が不可能に近かった為でもあった。それに、支持層の年齢上昇(鑑賞会員280人の平均年齢28歳)は個々の時間的制約によって、短期上映では参加の機会を失わしめる結果にもなっていた為でもあった。
 しかし、専用スペースを作らなければ、との焦燥感とは裏腹に、年度ごとの赤字によってその実現は永遠のかなたに押しやられるかに思われた。その時、手の届く範囲内で念願がかなえられる場所が見つかった。会員等へ呼びかけたところ、設立の為の最低資金(千百万円)が確保できる見通しがついて、設立準備に入った(まだ不足しているが)。
 この資金は、一口十万円以上で、返還の可能性が薄いものだけに、“浄財”と言ってもよく、11年にわたって培われた信頼と人間関係(逆に悪くした時もあったが)、映画に対する“夢”の実現への共鳴、及び名古屋の文化状況への不満が大きく作用して提供されたものと受け取っている。不特定少数(現在五十六名)が一か月の給料にも達する資金を持ち寄って、1つの“場”が作られるということは全国的にも希有な現象である。このスペースが成功し、全国各地に同質のものが作られた時、与えられっ放しの映画文化を観客側の手に奪い取ることが出来ると確信している。
 その為には、これまでの個的に近いもの(活動)から集団的なもの(運動)への質的転換を図らねばならない。映画だけの世界に留まるのではなく、他の文化領域との交流、運動体との共生を考えねばならない。映画とは何か、表現とは何か、生きるとは何か、を日常的に考え得る場にしなければ設立の意味はなくなる。
 高度成長期を頂点とした生活環境・人間関係の崩壊は、いまや我々へのツケとして精神と肉体をむしばんでいる。これをどうするか、ということを抜きにして映画運動を考えることは出来ない。
 私は映画を通して人間関係の回復と新たなる出会いを期待している。映画を通して世界の、現実社会の歪みや問題を提示できることをも期待している。それには参加者相互の会話と討論、運動体への接触と共生が積極的になされねばならないと思う。
 煎じ詰めれば、映画はそのための素材であり、名古屋シネマテークはそのための“場”である。作家の個性や主張のきわだった作品をより多く、より的確に紹介し、参加者に反発と共鳴を呼び起こさせるようにすること、それがこの小さなスペースによる映画運動がまず行わなければならない仕事であろう。
 以上の諸点を踏まえた運動形態を模索していかなければ、単なる商業映画館の類型でしかなくなり、血のかよわぬ疑似フィルムセンターでしかなくなる。このようなものでは、だれもやらないからやる、見たいからやるといった映画紹介の穴埋め作業でしかなく、無理を押しての設立の必要性は全くない。
 困難な作業であり、かつ経営運営上の心配も大きい。しかし、あえて挑戦することなくしては我々観客の望むものは創造し得ない。これはスタッフだけに任された作業ではなく、参加者個々の協力なくしては成しとげられない課題でもあろう。