毎日新聞78年11月13日



=副題=
利益追求を考えずに
求めるものを自分たちで

 巷では日本映画製作復興の声が聞こえてくるようですが、この声はおそらく『人間の証明』などのような、作品の質的完成度よりも、大動員出来る作品が出てきたことを指しているようです。このような作品は私たちにとっては興味の対象外で、強いて見たいとは思いませんが、このような大味な大作とは別に、私たちを心底からゆさぶるような作品も、わずかながら作られるようになってきました。
 60年代の作品群からくらべると小粒ではありますが、東陽一の『サード』、田中登の『人妻集団暴行致死事件』、藤田敏八の『帰らざる日々』などの小品に出会うと、日本映画にも薄日が差しつつあるかのようです。
 さて、映画は映画館で見るものと世間相場は決まっておりますが、興行的理由から商業ルートでは上映されずに、公会堂やホールなどで一日限りの上映が行われることがあり、その上映主体が、利益追求を第一義に考えない、自分たちの見たい作品を上映しようとするグループの場合には、ふつう“自主上映”と呼ばれ、私たちの活動も、このようなものの一つなのです。
 私たちが、今の活動を始めたのは71年1月のことで、大学映画研究会の主催で、“大島渚作品集”と銘打って、中区役所ホールで行ったのが最初でした。その後、今日まで“自分たちの見たい”映画を上映してきているのですが、その間の名古屋における映画状況は、それほどの変化を生じていないようです。ただ、“名宝文化”という私たちにとっての“映画の殿堂”が閉鎖になったのが、最も悲しむべき事象だったと言えるのではないでしょうか。
 “名宝文化”はATG(日本アート・シアター・ギルドの略称)の直営館で、ATG以外の作品も取り上げており、そこへ行けば、私たちの欲する作品に接することができたものでしたが、“名宝文化”なき後には“シネチカ”や“ミリオン座”が私たちの欲求を満たす補充的な存在となっております。しかし、密度の濃さから言えば、到底、くらべようもありません。その責任は映画館側だけであるのではなく、配給会社の輸入姿勢、製作者側の創作態度にもその一端があるのではないでしょうか。
 では、この落差をどのようにして埋めていくのかという問題になりますが、現在の映画観客層の年少化、ミーハー化、あるいは私たちのような古ダヌキ的映画ファンの少数化からは、私たちの望む作品を興行的に成立させることはむずかしく、この状況下で映画館側に求めるのは無理難題というものです。そこで残された道は、自分たちの求めるものは自分たちで上映していく以外ないとういうことになります。
 以上の理由から、過去7年の間、上映してきたのですが、どこまで自分たちが真に見たい作品を取り上げ得たかは疑問です。時には上映の意義すら問われかねないものもありましたが、そのほとんどは、それなりに意義があったと自負しています。
 特に、次にあげる作品などは、私たちの期待に答えてくれるものでした。このような作品に出会える喜びのため、私たちは資本の論理では説明出来ない上映を続けているのです。
 『灰とダイヤモンド』、『パサジェルカ』、『すべて売り物』、『少女ムシェット』、『まぼろしの市街戦』、『かくも長き不在』、『海の沈黙』、『眼を閉じて』、『大地のうた』、『東京暮色』などなど・・・・。
 そして、これらから、私たちの求める映画とはどのようなものなのかを類推していただけると思います。一つは、アンジェイ・ワイダが『二十歳の恋(ワルシャワ編)』で言ってのけた「たとえ世界中が忘れ去っても、私は自分の戦争体験を忘れないぞ」に代表される自己の体験に対する忘れ去ることのない“こだわり”の作品であり、もう一つは、成瀬巳喜男が『稲妻』で浦辺粂子に言わせた「幸せなんて!そんな贅沢なこと考えたこともないわ」に象徴される市井に蠢(うごめ)く母親(人間)の“生きざま”を表現した作品なのです。
                                                                                              (つづく)

 



毎日新聞78年11月20日


 
=副題=
ATGも変質
利潤と芸術、背反したまま

 “映画はおもしろければよい。楽しめなければ映画ではない”という人がいます。映画の成り立ちを考えれば、彼らの言いぐさは至極もっともだと感じないわけではありません。“映画を余剰時間の充足と生活の浄化剤としてだけではなく、価値創造の相互性の中でとらえようとする”私たちにとっては、それで済まされるものでもありません。
 映画は“科学の世紀”と言われた19世紀末に、資本主義社会の申し子として産み落とされました。最初のころは見せ物にしかすぎませんでしたが、その興行性から産業資本家に着目されるところとなり、それがひいては映画の普及と技術的な進歩を促進する結果となりました。しかし反面、大衆娯楽の旗頭として体制イデオロギーの伝播(でんぱ)者の役割をも担わされる運命を受け持たされることにもなったのです。
 そして、そこから生み出されるものはほとんど(時には、製作会社のイメージアップのため、作家性のある監督に作らせることもあった)は、私たちの生活感覚や現実認識からはかけ離れた絵空言のものであったり、押しつけの啓蒙作品にすぎなかったりしたため、観客との意識のズレとなって現れ、これに不満を抱く観客は映画を見捨てる結果となり、さらに、テレビや他の娯楽施設の発達により、娯楽のみを映画に求めた観客が映画から離れていくことになったのです。
 このようにして映画人口は凋落の運命をたどったのですが、映画を自分の人生とつき合わせて見ようとする層の中には、大島渚や黒木和雄らの作家性を帯びた監督たちのよる独立プロ作品に目を向ける者も現れ、さらに小川紳介、土本典昭らの社会問題に鋭く取り組んだ記録映画、また、松本俊夫や飯村隆彦らの新しい傾向を持った前衛・実験映画及び個人映画などの作品をも注視するようになり、旧来考えられていた映画観客層とはおのずと異なった層を形成するようになったのです。
 しかし、興行資本は決してこの層を無視してきたわけではなく、アート・シアター・ギルド(ATG)を創立して、映画人口減少に対処したのですが、結局、絶対数の関係から、持続のための利潤追求と、一方ではその芸術性の維持という二律背反を解決することができず、その結果がその後のATGの変質(娯楽性の強化)となって現れたのは、関係者の努力とはかけ離れた映画の持つ二面性を象徴しております。
 では、映画は娯楽性がなければ興行的に成功しないかと申しますと、決してそうではなく、外国映画について言えば、東京の岩波ホールを常設館としている“エキプ・ド・シネマ”の場合、一般映画館ではその興行力を心配されているものであっても、かなりの成功をおさめているようです。
 その要因として、関係者が上映作品の質的レベルに自信を持っていること。そのため、封切り時の観客の入りが悪くとも、決して上映日数を当初計画よりも短くしないこと。それによって後半からの動員に、口コミが絶大なる力を発揮してくること。映画館のイメージ作りのため、作品を厳選していること、などが挙げられますが、映画観客数の絶対量が少ない東京以外の都市では、エキプ・ド・シネマ方式による興行はむずかしいようです。
 地元・名古屋の場合にはどうか。エキプ・ド・シネマのような形式は無理としても、二、三週間の予定が、いつの間にか一週間で終わっていたりすることがあり、二週目以降に予定していた観客を無視するのもはなはだしく、また、まだ上映されるのはよい方で、拡大ロードショーの影響をモロに受けて、まったく上映されない作品もあり、このような不遇の作品の中で私たちの興味を喚起させる作品については、私たちで上映するように心がけています。
 しかし、メジャー系の作品を扱う場合、興行組合とのトラブルを極力避けねばならないため、そのような作品は、熱田区にある“旗屋シネマ”の好意により、そこで上映するなどの方法をとっています。今週行っている「シネ・フェスティバル・イン・ナゴヤ」(24日まで)も、その一つなのです。
                                                                             (つづく)

 



毎日新聞78年11月27日


 
=副題=
一人でもできる
会場難が悩みだが

 映画の上映を企画し、実行に移すまでに、どのような過程を踏み、いかなる障壁があるのかを、当会=ナゴヤシネアストの場合について説明しましょう。
 まず、自分の見たいフィルムの所在を確認することから始まります。映画のフィルムにはその創作物としての著作権(上映権)が生じています。日本映画の場合、フィルムが消滅していない限り所有者(製作者)との話し合いで自由に借り出せますが、外国映画の場合には、通常5年から7年の期間で日本国内における上映権(興行権)が設定されているために、その期間を過ぎると本国に返還するか、ジャンク(破棄処分)される運命にあり、再契約しない限り、原則として、上映出来ないことになります。
 しかし、相手国製作者との話し合いで、研究目的をもって日本に留め置かれる作品があり、これを一括して保管しているのが東京にあるフィルムライブラリー協議会(理事長・川喜多かしこ)です。ここからの借用は公共団体が主体となる上映以外、不可能なために、私たちでは利用出来ず、これを逆手に取って、74年に名古屋市教育委員会との共催で“1930年代のヨーロッパ映画”の企画を実現させたことがあり、その後、この企画は名古屋市の文化講座の一環として恒例化し、今年も11月に“戦後フランス映画の名作”として企画されました。当会は不手際により、第一回を除いて関与していません。
 また、学校や会社内など限られた範囲の上映会向けに営業している16ミリ業者があり、ここには、かなり古い作品まで残っていますが、娯楽作品が主流のため、上映したい作品の絶対数は限られています。このような業者とは別に、アメリカなどでは16ミリを個人の鑑賞用に安く販売している(『七人の侍』なども邦貨にして10万円前後で売られているとか)ため、これを買い入れて字幕を打ち込んだ、いわゆる海賊版なるものもあります。
 さらに、在日大使館が自国の文化紹介のために映画を所有している場合があり、これを利用した上映会の一例が、当会と中部日仏学館との共催による“フランス映画研究”です。ただ日本語字幕がついていないために鑑賞の妨げになっておりますが英語字幕により、ある程度までは理解し得るようです。この方法による上映会がなければ、メルビルの『海の沈黙』などには出会えなかったことでしょう。
 以上、メジャー系から海賊版まで上映対象になり、その中から自分の見たい作品を選んでテーマを決め、所有者と交渉して上映作品を確保することになります。
 フィルム交渉と同時進行的に見込み動員数に合った会場を手配し、総費用を計算して入場料を決定しておりますが、名古屋において私たちが求める会場(規模・料金)は少なく、会場確保にはいつも苦慮しています。
 しかし、会場が少ないといってもその運用さえ考えれば、総量の多くない名古屋の企画数をカバーすることは、ほぼ可能ではないでしょうか。まず、名古屋市教育館などの公共施設の夜間貸し出しの開放や、企業ビル内にあるフロア式ホールのスロープ式固定席ホールへの作り替えと一般貸し出しなどが実現すれば会場難など一挙に解決・・・というのは、映画青年の甘い考えに過ぎないでしょうか。
 フィルムの手配もつき、会場の確保もできたあとにくるものは、運営資金の工面ですが、一番重要な問題であるとともに、働けばどうにでもなる問題でもありましょう。上映会当日は、現在の運営の大部分を私一人で行っている関係上、受付などは、当日会場に来た知人、有志に手伝ってもらいます。そしてフィルムの返送と、プレーガイドでの前売券の精算ですべてが終わるわけですが、みなさん一度企画から上映までやってみませんか。企画・交渉の段階など実に充実感があり、楽しいものです。上映後にはいつも虚脱感と疲労感が残りますが、それらを水に流してくれるものは、映画との出会いであり、これが自主上映の生き甲斐でもあるのです。
                                                            (つづく)



毎日新聞78年11月20日


 
=副題=
自ら輸入交渉も
端緒開いたポーランドもの


 私たちが上映を企画する場合、まずフィルムの所在確認から始めることは前週のべましたが、旧態然としたレンタル形式では、見たい作品の量もおのずと制限され、かつ、現在のメジャー系の輸入方針からは私たちの望む作品は、ほとんど期待出来ません。
 唯一、エキプ・ド・シネマでの上映作品やそこにフィルムを提供している配給会社の作品の中に、私たちの興味を喚起するものもありますが、そのような作品であっても、上映作品選定委員の完全主義的貴族性のため、私たちの求めるものとはわずかながら膚合いを異にしております。これは選定委員の一人が、後述するフランス映画『眼を閉じて』を「こんな映画きらいだわ」と拒否した事実を考えれば明白です。
 このような現状を打開する道は、私たち自身の価値基準による選択と、それに伴う輸入を自らの手で行う以外なく、私たちと同じような考えをもって各地で自主上映に取り組んでいるグループが集まり、新しい輸入形態を模索し始めたのです。その名は、アート・フィルム・コーポレーション(仮称)。
 この集まりの端緒になったのが、東京で自主上映しているカトル・ド・シネマが75年にポーランド大使館との交渉の結果勝ち取った一連のポーランド映画に関するノン・コマーシャル(非商業形態の上映に限る)による契約だったのです。これにより、『灰とダイヤモンド』や『パサジェルカ』など50年代後半から60年代初頭にかけて全世界の映画ファンを震撼させた、いわゆる“ポーランド派”の作品が私たちのものになったのです。
 これらの作品は私たちの映画に対する思いに十分こたえてくれるものでしたが、私たちはこれだけで満たされることはなく、まだ見ぬポーランド映画を求めて、粘り強く交渉を続け、日本未公開作品の上映実現にこぎつけたのです。その第一弾が今年9月に公開したアンジェイ・ワイダの『すべて売り物』'68でした。
 この実現の裏には、私たちの映画にかける情熱に共鳴し、ノン・コマという低い契約金でロイヤリティー(上映権)を考えてくれたポーランド大使館の好意があり、さらに、日本語字幕打ち込みの機械部分を除く一切がっさいを自分たちの手で行うことにより、経費を抑えたカトル・ド・シネマの努力があったのです。
 私たちの映画は決して不特定多数の動員を期待出来るものではなく、限られた支持層だけを対象に考えなければならないため、冗費の節約は必要不可欠ですが、このような手作りが、より一層、その作品にのめり込む要因にもなっているようです。
 また昨年の春には、フランス映画『眼を閉じて』を私たちの手で自主配給致しました。これは私が他の作品を借用にいった時、偶然、その所在を知ったもので、興行的理由などから公開される見込みもなく、税関でストップしていたのです。そして、この作品ほど、私を魅了させたものはなく、このような世代の感性をとらえた作品は、決して既成の映画人には理解し得ず、私たちの自主上映の“粋”はここにあると思ったものでした。
 このようにして、自身の映画研究の素材としての名作と呼ばれる作品の上映と共に、輸入されることもなく、ましてや公開されることもなく埋もれている作品の中から、私たちの映画とも言えるようなものを探し出し、輸入・公開の努力をしていくこと。これが今後の私たちの自主上映のあり方になると共に、この行為を欠落しては、私たちの真に見たい作品との出会いはあり得ないものと信じているのです。
 現在、私たちのグループは、東京、京都、名古屋、大阪が中心になり、札幌、金沢、北九州、福岡、徳島と広がり、近々、福井、香川などからも参加してくる予定です。そして、このグループ間の関係には、既存の貸し手・借り手といった主従関係ではなく、あくまでも共有のものとの発想に立って、同等の発言力と権利を有しているのです。
 私たちの心底に、興行の持つ山師的要素が全くないとは言い切れません。ただ、そのようなものは二義的要因であり、見たい作品が見れる状況さえ作り出せばよいのです。そのための集合体でもあるのです。
                                                                                (つづく)



毎日新聞78年12月11日


 
=副題=
文献集め、批評見直し
創作力のバネに


 当会=ナゴヤシネアスト=のこれまでの活動の守備範囲は“見る”という立場から、現在の映画状況にいら立ち、ただ、自分の見たい作品の上映を行ってきたにすぎませんでしたが、7年を経た今日、一つの屈折点を迎えようとしております。
 今までのような上映活動だけで、果たして私たちが考えているような映画状況を作り出す“力”となり得るかとの疑念。現在の当会の上映形態は、“みせてやる、みせてもらう”式の既存の興行形態を小規模にしたものにしかすぎず、採算がとれるようになった段階で、映画館の別動隊化してしまうのではないかとの恐れ。既成の映画批評家が“映画評判家”と呼ばれる程、興行資本との癒着による批評精神の欠落状況にあっては、独自の批評活動の構築が必要不可欠ではないかとの反省。さらに、この批評活動によって私たちの見たい映画をみようという欲求を意識化させ、論理化させることで、私たちにとっての映画とは何か、見たい映画は何かを探りつつ、自分たちの映画を生みだそうとする基盤を作り出す必要性を感じてきているからです。
 以上の観点から、私たちは上映活動以外に、映画文献の収集、情宣誌を兼ねた批評誌の発行及び批評会の設置、映画製作などに着手しつつありますが、力量不足な点は否めません。
 批評活動を行うためには、ナマの作品に数多く接する必要がありますが、我が国の戦前の作品のほとんどが散逸している今日、見ることは不可能で、いきおい、その作品のシナリオを読んだり、当時の映画批評を手がかりにして、理解を試みることになります。
 しかし、名古屋においては作品であるフィルムは言うに及ばず、このような基本文献ですら収集している公的機関(図書館)はなく、もし調べようとすると、東京まで出かけなければならない状態です。そのために、私たちは映画文献の収集を始めたのですが、今日までに、単行本約550冊、映画雑誌訳1100冊を集めたに過ぎず、日本国内で発行された単行本が5000冊を超えていることを考えれば、まだその端緒についたばかりと言えるでしょう。
 また、このような文献収集とは別に、批評活動を行おうと、今年4月から当会の批評・情宣誌を兼ねた「シネアスト通信」を発行し、また、批評会を設置したりして、批評活動の活性化を図っておりますが、積極的に参加してくれる観客が少ないのが現状です。
 さらに、創作活動については、昨年の夏、大学時代からの友人である後藤幸一と共同で16ミリ劇映画『夢あざけりし風のように』を製作し、この4月に公開いたしました。これは、私たちの気負い過ぎのせいか、あるいは表現方法の失敗のせいか、私たちの意志を十二分に表出することなく、観客の多くを失望させました。しかし、私たちの創作意欲はこれで、ついえたわけではなく、次回作を虎視眈々とねらっているのですが、そのためには“良き批評家”に恵まれることも必要でしょう。
 映画製作は、創作である以上、作家性を要求されますが、複合芸術かつ機械芸術である関係上、機材の問題、スタッフ・キャストの問題なども大きな要因となってきます。
 名古屋では機材もなければ、スタッフもいないから映画製作なんて出来ない、という声を聞きます。スッタフの面からいえば、テレビ局が率先して地元で製作しようとしないことなどから、スタッフ予備軍が育つわけはありませんが、少なくとも機材の面からの言い訳だけはよそうと、16ミリ機材の所有も試みているのです。
 その結果、撮影機3台、編集機一式がそろい、発動機による照明機材も手にはいる予定であり、機材面からは、どこにもヒケを取らなくなったと自負しております。
 そして、私たちがつくっていく過程でスタッフは育ってくるものと楽観しているのです。
 このようにして、私たちは上映活動を中心に批評活動を活性化させ、それをバネにして創作活動へ昇華させる、いわゆる三位一体化した映画活動を展開させることにより、自分たちの映画とはどのようなものかをつきとめようと考えているのです。
                                                                                                        (おわり)