若き作家の活躍に触発
名古屋シネマテーク 自主上映20年

 
中日新聞02年6月25日

 ここ数年、映画興行は上昇気流に乗って活況を呈している。その要因は、シネコンの功績と多くの観客を集める作品の出現が大きく寄与しているようだ。シネコンは映画におけるコンビニである。ほそぼそと続いてきた駄菓子屋さんの息の根を止めるのに一役をかったように、シネコンの出現は、辛うじて続いてきた多くの脆弱(ぜいじゃく)な映画館を廃業においやってしまった側面もある。
 シネコンが日本に出現する以前の1982年、私たちは、ホールや映画館などを転々としたゲリラ的活動から、固定したスペース
(名古屋市千種区)に拠を移した。まだ、アングラを由とする雰囲気が残っている時代でもあった。
 その設立に当たっては、多くの希有
(けう)な方々からの有形・無形の協力を仰ぐことになる。「3年持てばいい、3年間だけは面倒を見よう」という人々の支援に支えられて、ひたすら上映に専念していた。事実、初期資金が日ごとに細っていく状況が続いていた。その過程で、勅使河原宏監督の『アントニー・ガウディ』(84年)に出会う。この作品によって一命をとりとめる。
 その後、小康状態が続いていたが、1998年インド映画『ムトゥ 踊るマハラジャ』(95年)によって、一挙に累積赤字を解消し、この世の春を謳歌
(おうか)していた。当然ながら、世の常、そのような状況は長くは続かなかった。今は、映画界の活況とは裏腹に、苦難の日々が続いている。
さて、当・自主上映館が設立された時代は、東京では、第一次ミニシアター・ブームにあったが、地方においては、その機運にはまだなかった。しかし、その後の山形、大分、札幌、大阪、岡山などホール上映を行っていた自主上映グループによるミニシアター(既存の興行会社のそれと区別するため、私としては自主上映館と呼称したい)が出現したが、当館と相前後して設立された新潟シネウィンドとともに、その先駆けにはなったと自負している。当然、その後の展開はコマーシャル・ベースに多かれ少なかれ流されてはいるが、それぞれのミニシアターは、自主上映の基本姿勢(見たい作品を上映して見る、動員力が弱い作品を紹介する)をそれなりに維持し続けている。
 80年代に疾走した自主上映グループは、ある男の影響を大なり小なり受けている。その男の名は、ドキュメンタリー作家、反権力を貫いき、弱者の側に立った小川紳介である。岐阜の釜戸出身の彼は、ちょうど10年前の2月に他界した。行年57歳。
彼は小川プロダクションを興し、高崎経済大学の闘争を描いた『圧殺の森』(67年)を皮切りに、三里塚闘争を撮り続け、農の原点を求めて山形の牧野に移り住んだ。そこで彼の後期の代表作『ニッポン国・古屋敷村』(82年)を世に問う。
 私と彼との出会いは、三里塚の総決算ともいえる『三里塚・辺田部落』(73年)からである。人間の営みを描いたこの作品は、ドキュメンタリーに対する私の先入観を大きく変えた。劇映画と同等に人間を描き切れるのだとの認識を与えたのである。70年安保闘争の最中には、闘争の現場で彼の作品は喝采
(かっさい)を浴びていたが、敗北に終わった後では、公開の場はなくなっていた。そのような彼の作品と自主上映グループとの道行きが始まるのは自然な成り行きでもあった。
 今日、当・名古屋シネマテークは20年の歳月を迎えた。小川の誕生日でもある。20年も経つと、人材も育ってくる。その一つは、名古屋シネマテークのスタッフをしていた若い人の中から、映画作家が登場したことであろう。先週まで上映していた『PRISM』の福島拓哉、7月に公開する『溺れる人』の一尾直樹などだ。また、大学の非常勤講師になっているスタッフもいる。彼等の活躍に触発されながら、名古屋シネマテーク自体の飛躍を図っていきたいと考えている。


くらもと・とおる
三重県伊勢市出身。
名古屋大学在学中の1971年から自主上映活動を始め、82年6月、名古屋・今池に市民参加型の自主上映館・名古屋シネマテークを設立。地方都市でのミニ・シアターとしては、先駆的な役割を果たす。
 愛知県芸術文化奨励文化賞(98)などを受賞。57歳。