新・中部と私
社団法人 中部開発センター171

 本センターでは、当地域に香里高い文化風土を醸成し、創造的な文化活動の推進を図るため、1977年に愛知県・名古屋市・愛知県下主要民間企業の協力によって発足した官民一体の組織である「都市文化会議」の事務局を担当しております。この組織は、当地域において積極的に文化活動に取り組み、将来、都市文化振興の中心的役割が期待できる人(団体)を毎年2人表彰しております。過去の受賞者の名かから、中部との関わりや中部に期待することなど中部中法に対する思いをご執筆いただくものです。今回は1978年度に受賞された名古屋シネマテーク代表の倉本徹氏にお願いしました。 (以上、編集部)

 

見たい映画を自前の小屋で
話題作が赤字を救う
資料館併設 講演会も
 
中部経済新聞02年2月27日

 生まれも育ちも、三重県の伊勢市ですが、大学受験のために東京で浪人生活を送りました。その間、受験の重圧から逃避するため、映画やパチンコなどにうつつを抜かしています。
 名古屋の大学に入学し、さて、心おきなく映画三昧しようという段になって、見るべき映画をかけている小屋(映画館)がない。そこで、大学の映画研究会の連中と語らい、自主上映団体「名古屋シネアスト」を立ち上げたのが、71年1月のことでした。

 最初の催し物は、やる側にもそれなりの熱意がこもるもので、多くの収益を上げました。これに味をしめて恒例の上映会を持とうということになります。当然ながら、「捕らぬ狸の皮算用」で赤字続出。その補填のために「チリガミ交換」を始めました。石油ショックの時代でもあり、意外と金になりました。
 卒業とともに生活が一変します。足を洗うつもりでいましたが、それまでに気になっていたポーランド派の映画が、東京で上映されるという情報が入りました。いても立ってもいられず、再開してしまったのです。
 これを境に、2年間努めた会社をやめ、平日は塾をしながら生活費を稼ぎ、土曜と日曜を上映に当てるようにしました。
 学生時代であれば、卒業とともにやめる理由にもなるのですが、社会人ともなると、やめる理由が見つけられません。そうこうしていると、マイナーな配給会社が増えてきました。彼らに呼応するためには、自前の上映室を持たねばと考えるようになったのです。しかし、上映の赤字で蓄えはない。そこで、一般から浄罪を集めることになりました。新聞社にもお願いし、記事にもしてもらい、最終的には、100余名、1500万円弱の提供を受けることができました。

 82年6月に念願の自主上映館【名古屋シネマテーク】をオープンします。しかし、赤字が続き、もはや1年持たないのではないかと、あきらめにも似た気持ちになっていた84年11月、救世主が現われたのです。それは、勅使河原宏監督の【アントニー・ガウディ】でした。動員数5200人。それまでの赤字の多くが一掃されたのです。
 一度、弾みがつくと、意外とうまくいくものです。その理由は、それまでの姑息な思考がおおらかになるからでしょうか。さまざまな面で好転していきます。当然、赤字基調ではありますが、収益がでる年もあります。年間の動員数は、2万台後半から、93年には3万台、97年には4万人と順調に推移してきました。その要因は「渋谷系」と言われる作品群が出現したことです。既存の配給会社や興行会社が、やっとマイナーな作品にも目をつけだした時期です。要するに、それまでの作品(観)では人を呼べなくなってきたのです。
 その集大成が、98年8月に公開したインド映画【踊るマハラジャ】です。動員数は8500名、興収は1300万円を記録。フルキャパが続きました。それまでの累積赤字が一掃され、税金を払う羽目になりました。
 しかし、よい期間はいつまでも続くことはありません。既存の配給会社、興行会社が、学習効果を上げてきたのです。そうなると、「資本力・ロケーション・小屋の大きさ」が物を言います。7年ほど前から、既存の興行会社と対峙するためには、最低限、何をすべきかと模索しましたが、「場所・スケール」を含めて、新・映画館を作る以外にはないとの結論に達しました。
 100席と40席の2館を併設する。そのためには、梁下3m、平場で100〜120坪。維持費の関係でワン・フロアが条件であり、100席は作品を勝ち取るための条件であり、3mは100席にするための最低の高さです。また、40席は自分たちのやりたい作品を上映するスペースとして手頃なためです。しかし、現実には、金銭面はともかくとして、なかなか適当な物件がないのです。

 その他、周辺の活動として、上映以外にもそれなりの活動はしています。その一部を紹介させていただきます。名古屋には演劇関係の資料を集めた「御園座演劇図書館」がありますが、映画関係の資料を集め、公開している図書館はありません。
 当然、何らかの資料を調べようとすると、東京か京都・大阪まで行かねばなりません。そこで、シネマテークでは映画資料館を併設しています。シネアスト時代から、書籍集めも始めておりまぢたので、現在、和書3500冊、和雑誌3000冊を保有する映画資料館となっています。貸出はオープンになっており、卒論関係などで1年で何人かまた何社の方が利用されています。また、講演会の記録集なども制作しております。シネアスト時代やシネマテークの初期の段階では、よく監督や美術、カメラマンの方をお招きして講演会を行っていました。名古屋のような地方に来ますと、意外と本音なのか、ウソなのかは知りませんが、結構、面白いお話が聞けます。それを活字にしない手はないと考えて、ブックレットにしました。

 現在、いわゆるミニ・シアターに位置づけられる映画館は、ヘラルド興行のセンチュリーシネマ・ゴールド劇場・シルバー劇場・シネプラザ50・シネプラザ4の5館、駅前に拠点をおく中日本興業のグランド6・ピカデリー4の2館、若松孝二監督の持小屋であるシネマスコーレ、森崎東監督の「生きているうちが花・・・」を製作したキノシタホール、そして、名古屋シネマテークの10館もあります。名古屋におけるミニ・シアター戦線は、これらの映画館で行われています。都市規模からすれば、かなりの激戦区です。消費者である観客からすれば、多くの作品が選べるというメリットがあるのですが、1人の映画に割ける時間には限りがありますから、提供する側の映画館はかなり厳しい状態が続いているといってもよいでしょう。

 思えば78年に第一回都市文化会議奨励賞をいただきましたが、四半世紀が過ぎ、既に56才となりました。これからの10年間を生き残るために、最後の戦いを挑む年齢になってしまったようです。