朝日新聞 97年11月9日

  安川喜久子さんは、桑名市に住んでいるが、週に一、二度、名古屋に映画を見にやって来る。
 78歳。銀髪で上品なおばあさんだ。洋裁が得意で、着るものは、端切れなどを利用して自分でこしらえる。
 よく来るのは、千種区今池の名古屋シネマテーク。そこで、若い人たちに交じって、前衛作品などを見ている。
 戦前のことだ。神戸で生まれ、東京で育った安川さんが、初めて映画を見たのは、12歳のとき。東京・新宿だった。
 上映していたのは、あの「モロッコ」。日本が戦争へと突き進んでいった暗い時代だったが、熱砂の恋の物語は多感な少女の胸を焦がした。
 その映画に連れていってくれたのは立教大生だったいとこと彼の友人。二人は、のち、ビルマと中国大陸で戦死した。「お国のために」などと言って出征したが、内心はどうだったのだろう。
 スクリーンに目を輝かせていた、あの日の思い出は今も忘れられない。至福のときだった。
 戦時中は東京で、空襲を受け、軍需工場に駆り出され、映画どころではなかった。
 ようやく見ることができるようになったのは戦争直後だ。やがて、映画は黄金期を迎え、人々は映画館の前に行列を作った。安川さんは、川喜多長政さん、かしこさん夫婦が輸入したフランス映画が、特に好きだった。
 往年の映画の面影は今はない。けれども、私のようなファンはきっといる。そう思っていたら、名古屋で倉本徹さん(52)たちが「自分たちが見たい映画を見よう」と、自主上映をはじめた。15年以上も前のことだ。
 安川さんは、彼らに自分と同じ熱いものが流れているのを感じた。戦前は映画を見るにも一種の「覚悟」が要った。官慶が目を光らせていたからだ。
 今はそれはなくなったが、良い作品を上映しようとしたら赤字を覚悟しないといけない。
 そのころ、夫の転勤で名古屋にいた安川さんは、シネマテークが設立された当初、人も雇えないと聞くと、自ら掃除を引き受けた。
 病弱だったご主人は、6年前に亡くなった。映画よりも釣りが好きだった。けれども、妻をよく理解してくれて、安川さんが映画に行くときは、子供の世話をしてくれた。
 闇(やみ)の中に一人、身を沈める。そこは自分だけの時間と空間。
 すぐれた映像には言葉や音楽は要らない。それだけで人生というものを、しみじみ考えさせてくれる。
 これまでの映画遍歴にはいろいろなことがあった。そんな我が人生を映像に投影させる。
 そのひとときは、だれにも、じゃまされたくない。
 孫たちは言う。「おばあちゃんが、死ぬときは、きっと、映画館の中だね」と。
 そう、「映画を見られなくなった日が私の死ぬ日だ」と安川さんは思っている。
                                                 (小川俊夫)