@千種区

脱サラ 映画人生に悔いなし
興行師になったつもりで賭けた

朝日新聞 95/4/25掲載

 今池には二つの「顔」がある。
 商店街としての「顔」と歓楽街としての「顔」だ。
 昼はアーケード街を自転車に乗った主婦たちが「どいて、どいて」と走り回り、夜はネオンの海を酔客たちがふらふらと漂う。
 昼は営業しているが、夜になるとシャッターをぴしっと閉める店もある。逆に、昼は寝ていて夜になると、もぞもぞと起きだす店もある。

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 昼と夜とで一変する、この街にあって、一日中、変らない空間もある。
 「名古屋シネマテーク」がそれである。
 地下鉄の今池駅を出て、銀行の支店や不動産会社の事務所、喫茶店、焼肉、ラーメン、焼き鳥、ウナギ、大衆酒場などが、ごちゃごちゃ並ぶ通りを西南方向に向かって歩くと、「スタービル」という、いささかくたびれた感じの五階建てのビルがある。
 地下1階から2階まで飲食店やピンクサロン、ビデオ店などが入り、上階は賃貸アパートになっている。
 二つの顔を併せ持つ今池の街を象徴するかのような雑居ビルだ。
 「シネマテーク」は、このビルの2階にある。座席数40、広さ150平方bの小さな映画館だ。
 けれども、ここでは昼の11時ごろから夜10時過ぎまで、時の流れや風俗にとらわれることなく、「これだ」と信じた映画を上映し続けている。「映画を愛する人の、映画を愛する人による、映画を愛する人のための映画館」。開高健の表現を借りるなら、ここはそういう人たちの「輝ける闇(やみ)」でもある。

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 主演は倉本徹さん(49)。この「シネマ物語」は、彼が大学受験のために上京したことから始めたい。
 伊勢市出身。東京では、名古屋だと見ることのできない映画を上映していた。勉強はそっちのけで映画館に通った。受験という圧迫から逃避するため、と言うと聞こえはいいが、もともと映画が好きだったからだ。
 で、東京での浪人生活2年、故郷で3年。あわせて5年の浪人生活のあと名古屋大に入った。さて、こちらに戻り驚いたのは、東京のような映画館がないことだった。

 1970年代、映画界は下降の道をたどっていた。家庭にカラーテレビが普及しだしたせいだ。名古屋にも映画館は数多くあったが、商業ベースに乗る娯楽作品ばかりで、自分が見たいと思う作品を上映しているところはなかった。
 「こうなったら自分たちで上映するしかないな」
 名大映画研究会に入った倉本さんは、そう考えた。名古屋という大都会。渇望しているファンは、きっといるはずだ。それを掘り起こそう。
 一か八(ばち)か。興行師になったつもりで賭けてみよう。

 それが、71年1月23日、中区役所ホールを借りた「自主上映」活動の始まりだった。
 上映作品は、大島渚監督の「愛と希望の街」と「日本春歌考」の二本。
 勘は当たった。会場には予想以上のファンが詰め掛け、「興行」は黒字になった。自分と同じく、本物の映画を求めている人々が、この地方にもたくさんいることを知って、感激した。
 「やればできる。東京のような映画館がなかったのは、これまでだれも埋もれている層を掘り起こそうとしなかったからだ」。倉本さんの血が騒いだ。

 卒業後、ある紡績会社に勤めたものの、サラリーマン生活はどうも面白くない。映画への思いが片時も離れなかった。会社は2年で辞めた。
 伊勢に戻り、学習塾を経営しながら金をためた。金ができると、フィルムと会場を借り、自主上映活動を続けた。
 「転々としているこの仕事、結構きついんだよね。フィルムだって20`もあるし」
 そのころは毎晩のように今池の炉端焼き店「六文銭」に飲み通った。好きで始めたことだから、愚痴はこぼしたくなかったが、酒のせいでつい口に出してしまった。
 すると、鉢巻を締め、口にチョビひげをはやしてハンペンを焼いていたおやじが、あっさり言った。
 「ああ、それならこの上が空いてるよ」

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 今年は映画誕生百年。今池かいわいをぶらり歩きながら「たかが映画、されど映画。わが映画人生に悔いなし」を紹介したい。




A千種区

自主上映の夢に協力者出る
心意気に支えられ開館にこぎつけた

朝日新聞 95/4/26掲載

 倉本徹さん(49)は、一見、あたりは柔らかいが、こうと信じたら、それに向かってわき目もふらずに突き進むところがある。
 「自分たちが見たい映画を上映する、そんな映画館をつくりたいんだ」
 学習塾で生計を立てながら倉本さんはある夜、「ひげおやじ」こと三嶋寛さん(56)に、そんな夢をぼそっと漏らした。

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 今池スタービルの地下にある炉端焼きの大衆酒場「六文銭」。ここのあるじ、三嶋さんも倉本さんと同じく「脱サラ組」だ。名古屋大を卒業、会社に就職しながら「組織」とか「管理」ということになじめず、今池に流れてきた。
 三嶋さんなら自分の気持ちをわかってくれるだろう。そう思って相談したのだ。
 倉本さんは夢の実現に燃えていた。三嶋さんは、その心意気が気に入った。
 なにかというと、損得ずくめの会社。しかも名古屋では、その傾向が一層強い。文化不毛に地といわれながら、こんな連中もいたんだ。三嶋さんはうれしくなった。
 ちょうどビルの二階が、空いていた。「そこを借りたら。なんなら私が保証人になって、ビルの持ち主と掛け合ってやる」
 三嶋さんも「のる」たちだ。今池には、名古屋駅や栄の繁華街とは違った息遣いがある。背広よりふだん着が似合う街。焼き肉やギョーザににおいがたち込め、おっさんたちがたむろし、おばさんたちが気さくに声を掛け合う街。半面、若者も大勢いて、夜遅くまでロックをガンガン演奏している。
 要するに「ごった煮」の街。三嶋さんは、そんな雑然とした街が好きだ。

 そこに倉本さんが新しい映画館をつくろうとしている。それも、商業ベースには乗りそうもない映画を上映するところを。三嶋さん、そこに倉本さんの「志」を感じ取った。失敗したら自分も責任を取るという気になった。

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 「家主」は、名古屋や四日市ではやはり映画館を経営している人だった。
 そのころ、映画人口は年々減り続け、興行収入はどこも低迷。映画館をやるよりは、駐車場や別の娯楽施設を建てたほうがもうかるという時代だった。
 こんなご時世に、映画館をつくるとは。しかも客が入りそうもない映画を。興行主でもある家主には、素人の「冒険」というより、「暴挙」に映った。
 「やめときなはれ」。大家はそう、言った。善意からでた忠告だった。
 だが夢追人、倉本さんの一途な思いと、それを支える三嶋さんの男気は揺るぎなかった。
 最後は根負けした感じの大家が言った。
 「あんたらも物好きやな。まあ、やるだけやってみるさ。どうせ、金は持ってないんだろう。敷金、権利金は分割払い、なんなら、あるとき払いの催促なしでも構わんさ」
 こうして場所は決まった。だが家主の言うように、金はない。
 自主上映活動を支援してくれる百人余りから千五百万円ばかり集めたものの、映画館に改装するのには最低でも二千五百万円かかるという。
 「つくる以上、35ミリのフィルムも上映できる映画館にしたい」というのが、倉本さんの夢だった。
 名古屋の工務店は「そんな予算では無理だ」と素っ気なかった。やむなく伊勢市で電気店を営む知人に事情を話して頼んだ。「ようし、お前のためや。九百万でやったる」。人のぬくもりを、これほど感じたことはない。

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 ああ曲がり、こう折れ、「名古屋シネマテーク」は、ともかく1982年6月26日、開館にこぎつけた。
 上映作品は、羽田澄子監督のドキュメンタリー映画「早池峰神楽の里」。

 ここまでは、みんなの善意に支えられ、ようやく、やってこられた。
 だが、この地方にも自分のようなファンはきっといるはず、という倉本さんの期待ははずれ、初日に来てくれた客は、わずか44人だった。一日当たり最低でも、70人が来てくれないと、採算が合わない。
 その夜、「六文銭」で、仲間と祝杯を上げながら、倉本さんの心中には、喜びと不安の気持ちがない混ぜになっていた。




B千種区

苦境にあっても心はぜいたく
「やれる!」3年目、黒字で自信わく

朝日新聞 95/4/27掲載

 名古屋シネマテーク」の館内にも、ジュースや牛乳などの自動販売機が置いてあるが、価格はいずれも90円。普通の映画館は、百五十円ぐらいで売っている。
 そう言うと、平野勇治さん(33)は「そんなみみっちいことでもうけても仕方ないじゃないですか」と一笑に付した。

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 ゴダールの最新作を香港で上映していると聞くと、「日帰りで見てこようかな」というほどの映画好きである。
 倉本徹さん(49)の自主上映活動を手伝い、南山大を卒業するや、あとさき考えず、「シネマテーク」のスタッフに加わった。
 中学、高校と受験に縛られ、やっと大学に入ったら、そこには何もなく、無気力が待ち構えていた。
 うつうつとしていた時、出会ったのが倉本さんだった。会社を辞め、学習塾で生計を立てながら、自主上映をしている倉本さんの生き方に「志」のようなものを感じた。だから他の会社に就職せず、薄給覚悟で「シネマテーク」のスタッフになることに迷いはなかった。
 普通の映画館では見られない作品を上映する。それが目標だから、マイナーな作品が多くなる。そうなると採算が取れない。いくら「武士は食わねど」とはいえ、開館にこぎつけるまで協力してくれた人々のことを思うと、経営難でつぶすわけにはいかない。
 倉本さんや平野さんが苦心したのは、もうかりそうな作品と、そうでない作品をいかに両立させ、赤字を出さずにすませるか。要は企画力が勝負だった。
 「イタリア映画傑作選」「アメリカ映画の夢と暗影」「日本の監督シリーズ」などの特集を組んだが、観客がわずか26人という日もあった。結局、初年度(1982年6月〜83年3月)の観客は一万三千八百人、興行収入は一千七十八万円余りで、百七十七万円の赤字が出た。

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 苦難の道は続き、翌年度も百三十八万円の赤字。いい映画を上映しているはずなのに、と思うと、泣けてくる成績だった。
 しかし、いったん、掲げた灯を消すことはできない。倉本さんは「3年間は面倒をみよう」という人たちのカンパで赤字を埋めた。倉本さんや平野さんにとって唯一、救いだったのは、顧客が少しずつ増えていることだった。
 「今池に一風変った映画館があって、よそでは見ることのできない作品を上映しているらしいよ」
 そんな評判が口コミで伝わって、遠く三重県や岐阜県からもファンが来るようになったのだ。
 「苦しいけれども今は踏ん張りどき。そのうち上むくさ」。二人には楽天的なところがある。それに好きで選んだ映画人生だ。経済的には多小苦しくても、精神的にはぜいたくな毎日を送っているという充実感があった。「世の中、カネだけじゃない。わが映画人生に悔いなし」。そんな気概だった。

 アルバイトを含めスタッフの顔ぶれは年々代わった。開館以来、「シネマテーク」にいるのは、倉本さんと平野さんだけ。
 その二人が前途にやっと光を見出したのは、84年。この年、顧客が初めて二万8千人の「大台」に乗り、これまた初めて72万円の黒字になった。「シネマテーク」の存在が浸透してきたと、一度訪れると二度、三度と足しげくやって来る「固定客」が増えたためだ。
 「名古屋にひとつぐらいは、こういった反抗的(?)な映画館があってもいいと思う」

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 黒字が出たことは、やはりうれしかった。台所が火の車だと、上映したいと思っているフィルムを借りることができないし、企画も立てられない。その苦境からようやく脱出できたのだ。「普通の映画館では物足りないと思っている潜在的なファンが、この地方にも大勢いるんだ。」
 手探りで始めた自主上映館だったが、めどがついた。客はどんな映画を見たがっているのか。その予測もつくようになった。倉本さんと平野さんは、自分たちの活動が地についたと思った。「やれる」。自信が内側からわいた。




C千種区

青春がよみがえる気がした
「銀幕は夢の世界」見続ける常連客

朝日新聞 95/4/28掲載

 映画「男はつらいよ」。
 その中で寅さんが次のようにいう場面がある。
 《おばちゃん、ありがとよ。アリがとなら、イモムシ、はたち。ヘビは25で嫁に行く、とくらあ》
 受け継がれているうちに言葉が洗われ、まるで詞華のようになったテキ屋の売り言葉だ。タン、タン、ターンとたたき込まれると、こちらも、なんだか、わかったようになるから不思議だ。
 でも、考えてみると、、なぜ、「ヘビが25」なのか。ちょっとわからない。
 高校の国語教師だった菊川亨さんは、それにこだわった。なにか根拠があるはずだ、と。
 ある日、ふと、昔の人は、ヘビのことを、「くちなわ」と言っていたことに気づいた。今も方言で使っているところがある。
 「く(九)ち(一)な(七)わ(八)」
 なぁーるほど。これなら足して25になるわい。合点がいった。菊川さんは、それを、ある映画雑誌に書いた。今のところ反論はない。定説になった、と、ご本人は信じている。

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 今池にある「シネマテーク」は、「映画ファン」というより、「映画狂」に近い人々に支えられている。ここに集う人々はそれぞれ一家言を持ち、時には温かく、時には鋭い目で鑑賞している。
 時間つぶしにスクリーンに向かっている私など中途半端な層でしかない。
 菊川さんは、上映作品が替わるたびに、ここにやってくる常連客の一人だ。66歳。
 映画とは、戦争の時代と、戦後の混乱期を通じて深く結ばれている。
 半田商業(今の半田商業高)の15歳のとき、「教師にそそのかされ」陸軍を志願した。国を守るために、爆雷もろとも敵艦に体当たりする。それもベニア板でつくった一人乗りの舟で。敗戦の一年前だった。
 名古屋駅から出発する前、大須に行って見た映画が「小太刀を使う女」。水谷八重子と月丘夢路がでていた。これが映画の見納めかとと思うと、妙に悲しかった。
 敗戦。日本は連合軍の上陸を待たずに降伏。菊川さんも特攻に出ずにすんだ。江田島で、広島の被爆者の救護に当たったあと復員した。
 占領軍、食料難、インフレ、下山、三鷹両事件、レッドパージ。戦後はすさんでいた。上京して法政大に入ったものの、学内は騒然として、学問をするところではなかった。とりわけ国文科を専攻した菊川さんたちは「軍国主義の復活」と見られ、落ち着かなかった。

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 安らぎの場所は映画館しかなかった。イタリア映画の「自転車泥棒」。小津安二郎監督の「晩春」。そこに描かれているさまざまな人生模様。「これだ」と感じた。
 ふるさとで教えながら「中部日本高校映画連盟」の事務局長をしたのも、生徒たちに良質の映画を見てもらいたかったからだ。
 そのうち今池に自主上映館をつくろうとしている倉本徹さん(49)たちと知り合いになった。文化不毛の地といわれながら、奔走している倉本さんたちを見て、菊川さんは、青春時代がよみがえるような気がした。
 映画は映画館で見るもの。テレビやビデオは、なぜか「まがいもの」に思える。「自分たちが見たい映画を上映しよう」という倉本さんたちの活動に、これまで名古屋にはなかった新しい息吹を感じた。

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 なぜ映画館にこだわるのか。菊川さんは、たとえば寅さんの渥美清の監督の山田洋次と同じ世代である。寅さんと同じように、戦前、戦中、戦後を生き抜いてきた。あのころ庶民の娯楽といえば映画しかなかった。銀幕。そこは夢の世界だった。戦後、アメリカの西部劇を見て、「こんなに広大な国を相手に戦争をしていたのか」と、びっくりした。
 今でも月に15回は映画館に通う。「目が疲れ、大きな音がすると耳を覆うんですが」と言いながら、内心苦ではなさそうだ。
 「夢之見過(ゆめの・みすぎ)」というペンネームで「シネマテーク」が発行している通信にも映画評を書いている。
 「この年になっても、まだ映画にこだわっている。それは夢の見過ぎだ、と若い人たちからからかわれるんだけれど、好きなものは仕方がない、一生、夢を見ていたいんだ」
 そんな人々が、今池の「シネマテーク」を支えている。




D千種区

「文化不毛の地」と言わせぬ
愛し支え守り続ける「上映の灯」

朝日新聞 95/4/29掲載

 「名古屋シネマテーク」は、マイナーなファンにとって、「全国区」的な存在だ。3年前、55歳の若さで病死した記録映画監督の小川伸介さんも生前、ここをしばしば訪れた。
 小川監督は、スタッフとともに三里塚や山形県の山奥に泊まり込み「三里塚闘争」シリーズや「ニッポン国・古屋敷村」などの作品を撮り続けた。自作が上映されると聞くと、山形から今池にやって来て、講演をしたり、ファンの質問に答えた。
 監督第一作の「青年の海」の試写会には、身内を含めて三人しか来てくれなかった。小川さんにすれば、自作に発表の場を与えてくれる「シネマテーク」の存在は、よほどうれしかったに違いない。映画が終わると、倉本徹さん(49)たち「シネマテーク」のスタッフと、今池かいわいの安い酒場に行き、メザシをさかなに、しょうちゅうを飲んだ。
 小川さんの映画は普通の映画館では上映されるような作品ではない。だから、借金をしながら映画を撮っていた。「シネマテーク」の関係者も製作資金をカンパした。
 「名古屋は、文化不毛の地といわれるが、ここだけは別だぁ」。小川さんは酔いが回ると、そう気炎を上げた。

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 さて、小川さんのような貧乏監督を支えながら「自主上映」の灯をともしているスタッフを何人か紹介する。いずれも映画大好き人間ばかりで、今ふうにいえば、ここに通っているうちに「入信」してしまった人たちだ。
 大橋雅之さん(32)。家業は弁当屋。午前4時に起きて名古屋の柳橋市場に買出しに行き、300人分の弁当を作る。大学時代は、「8_映画を製作していた。
 来日した「フィリピンの映画監督を瑞浪市の釜戸まで案内したことがある。そこには小川監督の実家と墓があるからだ。そのフィリピンの監督は、木切れで祭壇を作り、服を脱いで「オガワ、オガワ」と踊りながら霊を弔った、という。身ぶり手ぶりの片言の英語で付き合った大橋さんは、以来「ミスター・ベント−」と呼ばれるようになった。
 仁籐由美さん(35)と永吉直之さん(28)。
 仁籐さんは、今年2月、「シネマテーク」のスタッフを代表してベルリン映画祭に出かけた。
 朝の9時から深夜まで9日間にわたって50本以上の映画を見てきた。滞在中は、ホテルと映画館の間を往復しただけ。「街をじっくり見てくる余裕はありませんでした」。長時間の間、映画漬けになっても苦にならなかった。これは、よほどの「映画中毒」だ。

 永吉さんは、名古屋の小さな劇団「人工子宮」のプロデユーサーをしながら、ここで専従スタッフとして働いている。映画と演劇。どちらも見ていると「おうっ」と驚くような場面に遭遇する時がある。その瞬間に出あうのがうれしくて二足のわらじを履いている。

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 一尾直樹さん(29)。映画の自主製作を通じて、平野勇治さん(33)と知り合い、ここで働くようになった。
 一昨年、作った「夏の研究」は、サイコロにスイッチのようなものが付いた不思議な機械が登場してくる作品だ。「この機械、何なんだろうと考えるところがミソ。不条理をテーマにした作品です」。見てくれた友人は「うーん」と首をひねった。

 林本洋子さん(29)。大学を卒業して、家でぶらぶらしながら、「シネマテーク」に毎週のように通っていた。ある日、仁籐さんから声をかけられた。
 「今、働いているんですか」
 「ここへ来ている頻度を見ればわかるでしょう。ぶらぶらしてます」
 「じゃあ、手伝ってくれない。仕事はきつく、給料は安いけど」
 で、今年3月からスタッフに。ここでは、ややこしい手続きはいらない。映画さえ好きであれば。

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 映画を愛し、それを支えている人々。「シネマ物語」を取材していて感じたのは、名古屋にも、東京や大阪に負けまいとして奮闘している数多くの人々がいるということだった。損得抜きで活動している。彼らのような層がもっと厚くなれば、もう、「文化不毛の地」だなんて悪口をたたかれずにすむだろう。そう思いながら「シネマ物語」を長々と書いた。

=おわり
文:小沢俊夫