@千種区
脱サラ 映画人生に悔いなし
興行師になったつもりで賭けた
朝日新聞 95/4/25掲載
今池には二つの「顔」がある。 商店街としての「顔」と歓楽街としての「顔」だ。 昼はアーケード街を自転車に乗った主婦たちが「どいて、どいて」と走り回り、夜はネオンの海を酔客たちがふらふらと漂う。 昼は営業しているが、夜になるとシャッターをぴしっと閉める店もある。逆に、昼は寝ていて夜になると、もぞもぞと起きだす店もある。 ■ ■ ■ ■ ■
昼と夜とで一変する、この街にあって、一日中、変らない空間もある。 ■ ■ ■ ■ ■
主演は倉本徹さん(49)。この「シネマ物語」は、彼が大学受験のために上京したことから始めたい。 ■ ■ ■ ■ ■ 今年は映画誕生百年。今池かいわいをぶらり歩きながら「たかが映画、されど映画。わが映画人生に悔いなし」を紹介したい。 |
A千種区
自主上映の夢に協力者出る
心意気に支えられ開館にこぎつけた
朝日新聞 95/4/26掲載
倉本徹さん(49)は、一見、あたりは柔らかいが、こうと信じたら、それに向かってわき目もふらずに突き進むところがある。 「自分たちが見たい映画を上映する、そんな映画館をつくりたいんだ」 学習塾で生計を立てながら倉本さんはある夜、「ひげおやじ」こと三嶋寛さん(56)に、そんな夢をぼそっと漏らした。 ■ ■ ■ ■ ■
今池スタービルの地下にある炉端焼きの大衆酒場「六文銭」。ここのあるじ、三嶋さんも倉本さんと同じく「脱サラ組」だ。名古屋大を卒業、会社に就職しながら「組織」とか「管理」ということになじめず、今池に流れてきた。 ■ ■ ■ ■ ■
「家主」は、名古屋や四日市ではやはり映画館を経営している人だった。 ■ ■ ■ ■ ■
ああ曲がり、こう折れ、「名古屋シネマテーク」は、ともかく1982年6月26日、開館にこぎつけた。 |
B千種区
苦境にあっても心はぜいたく
「やれる!」3年目、黒字で自信わく
朝日新聞 95/4/27掲載
名古屋シネマテーク」の館内にも、ジュースや牛乳などの自動販売機が置いてあるが、価格はいずれも90円。普通の映画館は、百五十円ぐらいで売っている。 そう言うと、平野勇治さん(33)は「そんなみみっちいことでもうけても仕方ないじゃないですか」と一笑に付した。 ■ ■ ■ ■ ■ ゴダールの最新作を香港で上映していると聞くと、「日帰りで見てこようかな」というほどの映画好きである。 ■ ■ ■ ■ ■
苦難の道は続き、翌年度も百三十八万円の赤字。いい映画を上映しているはずなのに、と思うと、泣けてくる成績だった。 ■ ■ ■ ■ ■
黒字が出たことは、やはりうれしかった。台所が火の車だと、上映したいと思っているフィルムを借りることができないし、企画も立てられない。その苦境からようやく脱出できたのだ。「普通の映画館では物足りないと思っている潜在的なファンが、この地方にも大勢いるんだ。」 |
C千種区
青春がよみがえる気がした
「銀幕は夢の世界」見続ける常連客
朝日新聞 95/4/28掲載
映画「男はつらいよ」。 その中で寅さんが次のようにいう場面がある。 《おばちゃん、ありがとよ。アリがとなら、イモムシ、はたち。ヘビは25で嫁に行く、とくらあ》 受け継がれているうちに言葉が洗われ、まるで詞華のようになったテキ屋の売り言葉だ。タン、タン、ターンとたたき込まれると、こちらも、なんだか、わかったようになるから不思議だ。 でも、考えてみると、、なぜ、「ヘビが25」なのか。ちょっとわからない。 高校の国語教師だった菊川亨さんは、それにこだわった。なにか根拠があるはずだ、と。 ある日、ふと、昔の人は、ヘビのことを、「くちなわ」と言っていたことに気づいた。今も方言で使っているところがある。 「く(九)ち(一)な(七)わ(八)」 なぁーるほど。これなら足して25になるわい。合点がいった。菊川さんは、それを、ある映画雑誌に書いた。今のところ反論はない。定説になった、と、ご本人は信じている。 ■ ■ ■ ■ ■ 今池にある「シネマテーク」は、「映画ファン」というより、「映画狂」に近い人々に支えられている。ここに集う人々はそれぞれ一家言を持ち、時には温かく、時には鋭い目で鑑賞している。 ■ ■ ■ ■ ■ 安らぎの場所は映画館しかなかった。イタリア映画の「自転車泥棒」。小津安二郎監督の「晩春」。そこに描かれているさまざまな人生模様。「これだ」と感じた。 ■ ■ ■ ■ ■ なぜ映画館にこだわるのか。菊川さんは、たとえば寅さんの渥美清の監督の山田洋次と同じ世代である。寅さんと同じように、戦前、戦中、戦後を生き抜いてきた。あのころ庶民の娯楽といえば映画しかなかった。銀幕。そこは夢の世界だった。戦後、アメリカの西部劇を見て、「こんなに広大な国を相手に戦争をしていたのか」と、びっくりした。 |
D千種区
「文化不毛の地」と言わせぬ
愛し支え守り続ける「上映の灯」
朝日新聞 95/4/29掲載
「名古屋シネマテーク」は、マイナーなファンにとって、「全国区」的な存在だ。3年前、55歳の若さで病死した記録映画監督の小川伸介さんも生前、ここをしばしば訪れた。 小川監督は、スタッフとともに三里塚や山形県の山奥に泊まり込み「三里塚闘争」シリーズや「ニッポン国・古屋敷村」などの作品を撮り続けた。自作が上映されると聞くと、山形から今池にやって来て、講演をしたり、ファンの質問に答えた。 監督第一作の「青年の海」の試写会には、身内を含めて三人しか来てくれなかった。小川さんにすれば、自作に発表の場を与えてくれる「シネマテーク」の存在は、よほどうれしかったに違いない。映画が終わると、倉本徹さん(49)たち「シネマテーク」のスタッフと、今池かいわいの安い酒場に行き、メザシをさかなに、しょうちゅうを飲んだ。 小川さんの映画は普通の映画館では上映されるような作品ではない。だから、借金をしながら映画を撮っていた。「シネマテーク」の関係者も製作資金をカンパした。 「名古屋は、文化不毛の地といわれるが、ここだけは別だぁ」。小川さんは酔いが回ると、そう気炎を上げた。 ■ ■ ■ ■ ■ さて、小川さんのような貧乏監督を支えながら「自主上映」の灯をともしているスタッフを何人か紹介する。いずれも映画大好き人間ばかりで、今ふうにいえば、ここに通っているうちに「入信」してしまった人たちだ。
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一尾直樹さん(29)。映画の自主製作を通じて、平野勇治さん(33)と知り合い、ここで働くようになった。 ■ ■ ■ ■ ■ 映画を愛し、それを支えている人々。「シネマ物語」を取材していて感じたのは、名古屋にも、東京や大阪に負けまいとして奮闘している数多くの人々がいるということだった。損得抜きで活動している。彼らのような層がもっと厚くなれば、もう、「文化不毛の地」だなんて悪口をたたかれずにすむだろう。そう思いながら「シネマ物語」を長々と書いた。 |
=おわり
文:小沢俊夫