NAGOYA Spymaster 
94年12月号掲載

名古屋、映画業界事情

 日本の東西文化の交流点として古くから独自の文化形態を築いて来た名古屋。一方で、我が国の地方都市の典型だとも言われている。
 映画についてもそれは同じ。戦後間もない頃の映画ブーム、そして高度成長期以降、テレビの登場や、日本映画の衰退によって、特に地方都市で多くの映画館が閉館された。そうした日本の映画館の栄枯盛衰がここ名古屋では如実に表れている。
 しかし別の観点からみれば、ヘラルドという大手配給会社のお膝元であり、2本立てロードショーという東京では考えられない贅沢なシステムが当然。こうした大手の映画館だけが生き残り、古くからの名画座的な箱が一時消え去っていたかと思えば、最近では、コロナグループに代表される郊外型映画館の出現で、愛知県全体で見ると、最も映画館が増えた地域でもあると言う。
 今から10年以上前、名古屋ではすでに火が消えていたかに見えた名画座、ミニシアターを復活させたのが今池の『名古屋シネマテーク』である。座席数こそ少ないが、ヨーロッパであったり、古いフィルム、自主制作映画などカルトムービーの上映館として、名古屋の映画ファンを魅了してきた。
 ここと前後して、シネマスコーレ、ゴールド&シルバー劇場が完成し、名古屋のミニシアターマップが完成した。今回の主役は、そのシネマテークの倉本徹氏。彼の映画人生の軌跡を追った。
 
’50 ’60
1945年に伊勢市に生まれた倉本氏は、高校卒業まで、実に平凡な人生を歩んできたとか。シャイで内気な高校生、いまからは想像が付かないが・・・・・。 浪人生活を東京の寮で過ごした倉本氏は、映画の魅力に取り憑かれ、その結果が5浪。名大入学後すぐに自主上映を始め、留年1年も経験する。
’70 ’80
大学卒業後、勤めた紡績会社を2年で退社。伊勢の実家で塾を営みながら、自主上映を再開する。ここで得られた人脈が、今のシネマテークをつくった。 自主上映に関わった人たちからの出資で、82年6月、ついにシネマテーク開館。2年後、右腕となる平野氏入社。また、41歳の時に、結婚もした。

’90

今も河合塾で講師の仕事を続けながら、倉本氏は秀作映画を送り出してくれている。昨年には初の2世”大地君”が誕生し、公私ともに充実した日々だとか。
 

TIME TABLE

朝9時から、河合塾での授業がある日曜日と、10時からの講師会議が開かれる火曜日を除いて、倉本氏は毎朝、10時にはシネマテークに顔を出す。水、木曜日は、5時から、土曜日は3時から授業があり、それ以前にさまざまな雑用を済ますためだ。
 配給会社と電話で打ち合わせを行ったり、経理、決算をしたり。オープン2年目から倉本氏の右腕として、シネマテークを切り盛りする平野さんと、上映映画を決めたりと、細々とした業務をこなしていく。
「ただ、実質的には、平野君がほとんどやってくれているので、シネマテークの僕の仕事は、ほとんど無いような状態ですね(笑)」
 12時に昼食を取った後、河合塾へ出勤するまでの間、同様の業務をこなしていくのだが、実際には至ってのんびりしたものだとか。
 夜は1歳半になる息子さん、大地君と接する大切な時間に充てられる。子供の話を振ると、クシャリと顔が崩れたのが印象的だ。


 ここに1冊のノートがある。中を開くと、まるで時刻表の如く、日付と映画のタイトル、上映時間、上映館、入場料が几帳面に線を引いた表にびっしり書き込まれている。
「でも、一切、内容についてコメントしていないでしょう。実に自分らしいなぁと思いますよ。僕の映画に対する姿勢が表れている」
 このノートは、『名古屋シネマテーク』の代表・倉本徹氏が、浪人時代に書き綴ったもの。1945年伊勢市に生まれた倉本氏は高校まで実に平凡な人生を送っていたと言う。
「好きな女の子にも声をかけられないほど、シャイで内気な一地方の高校生でしたね」
 そんな倉本氏が大きく変わったのは、浪人時代。東京で寮生活を送りながら、予備校に通った氏は、受験勉強から逃げ出したい一心で、パチンコと映画館に入り浸った。
「当時映画が1番安かったんですよ。ロードショーじゃなければ、100円で観られた。浪人1年目で150本、2年目は200本近く観たんじゃないかな。おかげで5浪する羽目になってしまいましたけどね(笑)」
 よくぞ5年も浪人したなと、その諦めの悪さ(失礼)には、あきれたものか、関心したものか・・・・。とまれ5年間ですっかり映画の虜になった倉本青年は無事名古屋大学に合格を果たすやいなや、すぐに映研に入部した。
「でも名古屋には当時、僕が好きな映画をかける映画館が無かった。だったら自分たちでと、配給会社に交渉したりして、外のホールなどを借りて、自主上映会を始めたんです。」
 内気な高校生は、5年間の浪人生活でしたたかな”目立ちたがりや”に変貌していた。プニュエル、ゴダールなどヨーロッパの秀作を中区役所ホールなどで次々に自主上映した。
「でも、卒業したら、映画会社に入りたいとは思いませんでしたね」
 5年間かけて大学を卒業し、紡績会社に就職、だが、持ち前の目立ちたがり精神が徐々に首をもたげ、サラリーマン生活は2年で破綻した。実家のある伊勢市にもどり、学習塾を開き、それで糊口を濡らしながら、自主上映会を再開したのである。中区役所ホール、熱田にあった旗屋シネマなどでは、定期的な上映会を続けた。そして、配給会社とのパイプも太くなった1982年6月、様々な形で自主上映会に関わってきた104名の有志から共同出資を受け、ついに『名古屋シネマテーク』が誕生した。
「オープン後2年は大赤字。3年目から金銭的危機感は無くなりました。僕は浪人時代のノートに出ているように、評価はできないけれど、その分、身体を動かして、自分なりに映画界の中で目立って来たつもりです」
 意外にも倉本氏は、今でも河合塾で小中学生を教える講師をしているという。生活のための稼ぎと映画館経営は別物である。
「好きな事をやれて来たのは幸せです。でももう一度、50代前半までに、勝負したい、マイナーでもいいけど、マイナスなアングラ的イメージのない映画館を作りたい」
 永遠の映画青年倉本氏。新しい映画館の構想を話す彼のひとみは少年の如く輝いていた。



目立とう精神を発揮して、
人脈を広げれば、
その先に光明が見えてくる。