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中日新聞 85/2/25掲載

名古屋・今池のネオン街に埋もれるようにして小さな映画館がある。「名古屋シネマテーク」。自らを”シネアスト”(映画人)と呼ぶ自主上映グループが自分たちの活動の拠点を3年前にオープンさせた。客室数40席のミニサイズだが、自主上映館としては全国でもめずらしい存在。メジャー系興行界の物量攻勢の中、この"城"を守るシネアストたちの奮闘が続いている。

(萩 誠記者)

会員出資で自前の城

雑居ビルの2階に

 大劇場の千席を超える客席やゆったりスペースのロビーを見慣れた目にはこのちっぽけな映画館のすべてに戸惑いを感じるに違いない。
 名古屋市千種区今池に一角。喫茶店やら飲み屋やら、マージャン荘までが雑居したビルの2階に「名古屋シネマテーク」がある。
 まず、そこまで行きつくのがひと苦労。道をたずね、電話をかけ直し、当のビルにたどりついてもはて、入り口はどこなのやら・・・・・・。

 「あいかわらず電話による場所の問い合わせが多くて。オープンしてから3年といっても一般の人には知られていないですねえ」と苦笑するシネマテークの代表者、倉本徹さん(39)=同地在住、塾経営。同劇場の”生みの親”である。
 名古屋大学映画研究部のころから「ナゴヤシネアスト」の名で自主上映活動を続け、会員を募り、上映の場を求めて貸しホールや公民館を転々としてきた。この間11年。
 「自分たちの専用の拠点(劇場)を持てたら」という夢が実現したのは昭和57年6月のことだ。
 建設資金は1300万円で、サークルの会員らに一口5万円で出資を呼びかけた。教師、医師、会社員、主婦と幅広い層から出資者が集まり、中には浪人中の学生まで参加してくれた。当時まだ資金不足だったが、開館にこぎつけた。
 名古屋シネマテーク全体の広さは120平方メートルで、客席、ステージ、映写室を含めた劇場部分が約80平方メートルある。固定椅子40席、補助イス、立ち見を含めると60人収容できる。
 なんといっても自慢のタネは35_専用の映写機を備えていることだ。東京でも、自主上映館の例はあるが16_しか設置されていない。大阪ではようやく、”常設館”を持つ方向に進んでいる段階とか。
 ほかのロビーの一隅に設けた資料室には映画関係の雑誌、単行本がそろって、"映画図書館”のおもむき。シネアストたちの”城”は小さくとも中身は充実しているわけだ。

会員はただいま500人

 シネマテークは出資した特別会員約100人、観賞会員約400人の計500人で構成されている。会員への連絡、劇場の運営、企画への連絡、劇場の運営、企画などにあたるスタッフは倉本さんを含めて12人。
 そのスタッフ会議が毎週土曜日の夜開かれる。会社員もいれば学生もいる。倉本さんの39歳を筆頭に30歳代がもう一人。あとは20歳代と若い。平均年齢を計算したら20歳代前半になってしまった。




専従は二人で
興行界の常識破る企画


いずれ劣らぬ熱意

 スタッフの映画への思いは”この道一筋”の倉本さんにけっして負けていない。
 タクシー運転手の山田鉄夫さん(33)=名古屋市熱田区1番町=は月13日勤務のかたわらここへ足を運ぶ。タクシー会社に入る前には電気関係の仕事で、映写技術、電気トラブルにめっぽう強い。頼りになる”裏方さん”だ。
 高校時代は映画研究部所属。「邦画を全部見てやろう」の思いにかられた。以来、二本立て、三本立ての映画館をハシゴして年間300本ぐらいこなした。昭和35〜45年度作品なら8割を見ているというからすごい。
 現在、名古屋市内には映画館が65館、うち邦画が35館で「お客さんにクルマの行き先を映画館で指示してもらえたらすぐわかるのですがね」とはさすが。

自転車で走り回る

 劇場詰めの専従は二人いて、その一人、平野勇治さん(23)=名古屋市名東区大幸町=は倉本さんの経営の塾で講師もしている。映画、国語、社会を担当。
 高校生のとき、ナゴヤシネアストの観賞会に出席、南山大時代に倉本さんと顔見知りになって、スタッフに加わった。いまでは倉本さんを別にすれば仲間の中で1番"古株”にばった。
 愛用の自転車で広報活動に飛び回って、名古屋駅へフィルムを取り出しにでかけ、荷台に積んでかえることもしばしば。法学部法律学科卒。「法律は大切ですが、いまの仕事には役立ちませんなあ」と淡々と語る”静かなる男”。

 女性は、南山大文学部哲学科卒で大学研究室勤務、神戸っ子の愛知学院大歯学部生、外資系銀行員、日本福祉大生と4人いる。
 「映画なんてテレビ放映で見ればいいぐらいに思ってたけど、大学のクラブをハードにしたようなスタッフの熱っぽさにひかれた」「あんまりこちらに熱心になると勉強の方がお留守になっちゃって。留年すると1年間の授業料が300万円でたいへんなんです。」と”城内”に花を添えている。 

ハンディ乗り越え

 映画評論家の森卓也さんは「赤字企画の連続と聞いています。それに地理的なハンディがありながらよくぞここまでの思いです。観客への配慮も十分いき届いていて実にあっぱれですよ」と評価は高い。
 「倉本さんは、”毛色”の変ったスタッフたちをひとつにまとめて実によくやっている。人間が丸くなりましたね。シネアスト時代からの苦労はムダではなかった」ともいう。

 ”シネアスト”はフランス語で”映画人”のこと。活動母体だったナゴヤシネアストには複数をあらわす”S"の字は付いていない。
 「改めてその言葉を考えてみれば、たしかに私一人だけという単数の意味の時もありました。でも、いまは違います。スタッフ全員が仲間という複数の意味に理解しています」
 倉本さん自身の個人的な好みの強い、ある意味ではひとりよがり的な体質からスタッフの声を反映するように変った。

地味な作品を発掘
 
 だが「非商業主義、反興行」というシネアスト路線は変らない。一般の興行界が敬遠ぎみの、配給ルートに乗りにくいマイナーな作品や地味な各国映画祭などの”赤字必至”の企画が続く。経営は決して楽ではないが、どっこいそう簡単には城は落ちない。倉本さんと11人の仲間の結束は強く、守りは堅い。



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中日新聞 85/2/26掲載

 
 二月に入って、名古屋シネマテークの会員は500人を超えた。
 うち、劇場の建設のため出資した特別会員は約100人、観賞会員が400人。いわば、"株主"でもある特別会員の数が、固定的であるのは当然として、観賞会員は徐々にではあるが増え続けてきた。
 昭和57年6月に劇場ができたときは330人、昨年11月で370人という数字。
 「あと300人はほしいですね。800人の会員制が理想です」と倉本徹さん。ナゴヤシネアスト時代から、自分たちの"常設館"名古屋シネマテークを持った現在までの14年間、自主上映活動を続けてきた経験から割り出した"理想の数"?のようにもみえる。
 多ければ多いほどよさそうなものだが「いえ、通信発送事務などの関係で、800人が限界でしょう」とあっさりしたものだ。
 会費は年間2000円。毎月発行のシネアスト通信、上映作品の割引サービスなどの特典付き。ベストテン選びにも参加できる。
 会員の平均年齢は31.5歳、男女比6対4。年齢が高く、女性が少ない。一般の映画ファン層と比べ、かなり"いびつ"な構成だが、そのうえ会員の継続率が50〜60%で、退会者が思ったより多い結果だ。
 「映画の本数や割引率を計算し、1本あたりいくらになるかを考えて入会、退会を決める人が多い」という倉本さん。
 同じ名古屋で旧作の名画を月1回のペースで上映している「シネマビレッジ」(名古屋市中区・中日シネラマ会館内)は、会員数が1300人。昭和57年7月にスタートして1年後にこの数字に到達した。
 「会場のスペースの問題があり、この線を維持しています」という主宰者の前川和明さん。1年会員、半年会員制で、継続率は40%。会員に働きかけないとどんどん退会してしまうという。だが、この会は新規加入が多く、1300人の線を常に超えそうな勢い。
 シネマテークの入場者は、スタートした年の57年合計が約14000人、このうち一般入場者が10000人、会員4000人だった。同じく58年が合計19000人のうち会員3300人、59年は22000人、会員4000人。
 入場者は着実に増加を示しながら、会員による入場者は横バイなのだ。さらに会員の実数は増えているのだから、会員一人あたりの入場回数は減少傾向にあるわけだ。
 昨年4月から数えて117回も参加した学生(男)がいる。そんな熱心な会員で支えられている半面、ナゴヤシネアストの存在が、広く一般にも浸透した結果といえないだろうか。

(萩 誠記者)



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中日新聞 85/2/27掲載

 
  昨年12月に公開以来「ゴースト・バスターズ」とか「グレムリン」といったメジャー系の洋画がいまなお名古屋市内で上映中だ。
 ロングランでは一昨年の「E・T」のように約半年に及ぶものまでもある。そんな作品をかける劇場は二本あれば1年間の興行が成り立つことになる。ただ、現実にはメジャー系の映画館ではこれほど極端なことにはならない。
 邦画の名宝劇場(中区・納屋橋)を例にとってみると、昨年一年間で12番組18本を上映した。一本立て6回、二本立て6回、つまり1ヶ月に一番組のペースになる。邦画、洋画を問わずロードショー劇場はほぼ同じ。
 ところで名古屋シネマテークはどうだろうか。これがなんと年間200本を超すのが現状だ。
 昭和58年度(同年4月から59年3月まで)には47企画244本の作品を上映している。さらに驚くことは、59年度に入って1年ががりの企画「ドイツ映画大回顧展」を手がけた。20パートに分け上映本数は150本。戦前戦後のドイツ映画の全ぼうを見渡そうという企画で、このぼう大な計画も4月で終わる。
 「ナゴヤシネアスト時代でも年間8、90本は上映してきたはずです」と倉本さん。2本立て週1回の計算になる。公民館や貸し劇場を転々とした”ジプシー上映会”だったのが、常設館を持てばこんな本数は当たり前といいたげ。
 作品によっては長編、短編、名古屋未公開作品、旧作、また上映期間の長短もさまざま。「ニッポン国・古屋敷村」(58年6月)が3週間、「アントニー・ガウディー」(59年11月)が16日のロング。短い企画ではたった1日というのもある。
 本数が増えれば増えるほど、企画から上映までシネアストたちの仕事が煩雑になる。一企画ごとに上映時間を刷り込んだチケット類を作成しなければいけない。1日5本の入れ替え制ではフィルムかけ替え・・・・・。ときには混乱も生じる。
 「チケット類は作ったあとで外国のフィルムの到着が遅れていることがあり、まっ青になりました。ごくまれなトラブルですが・・・」という劇場専従の平野勇治さん。
 どんなに客が入らなくとも一度決めた企画は途中上映を打ち切ったり、作品を変更したりしない。「一人の映画ファンとして考えた場合、こんなにアタマに来ることはない。だから絶対それだけはやりたくない」と強調する。
 自分たちだけでなく一般映画ファンにも”見たい映画”を上映している名古屋シネマテークだが、劇場代表者の倉本さんは、「これを作らなかったら東京では上映されながら名古屋で紹介されない作品がかなりの数になるでしょう」と誇らしげだ。

(萩 誠記者)



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中日新聞 85/3/4掲載

 
  「ちょっと一杯飲みたくなったら同じビルの中の飲み屋へいきます。劇場ができた時分はいつも500円1枚きりで」と倉本徹さん。
 まるで500円ぽっきりしか入っていない”寅さん”の財布みたいな話だが、「あとはだれか顔見知りの人が来るのを待つ」と笑い飛ばす。「でもね、いまはそれが千円。少しは生活が向上したのかな」
 倉本さんは現在、名古屋シネマテークのある同じビルの5階で一人ぐらし。結婚はしていない。だから2DKのこの住まいは広すぎるくらいだ。出身地は三重県伊勢市で塾経営していたときは、名古屋ー伊勢の往復が続いたが、劇場を持ってからこちらに居を定めた。
 大学時代から自主上映活動に情熱を注いできた倉本さん。だが、中・高校生のときはそれほど映画に熱をあげなかった。名大へ入るまで、二年浪人し「そのヒマつぶしに見た程度」が"引き金”になった。
 経済学部経済学科卒。昭和49年、卒業と同時に紡績会社に勤め、2年後に辞めてしまっている。
 「大学時代から始めたシネアスト活動と会社勤務が、両立しにくい面はもちろんあったが、繊維不況で給料が安かったのも事実。それなら塾の仕事などで生活できるメドが立った」
 生活の上で、大きな転機になったのは、むしろ劇場建設以後のようだ。
 会場の家賃、電気代、電話代、通信費・・・・・出費の例をあげればキリがない。それに赤字の企画続き。黒字になったのは「アントニー・ガウディー」の約5000人動員などわずか数企画しかない。
 伊勢市の塾を撤退して、名古屋でも劇場のとなりのビルで、塾を経営しているのだが、生徒数がまだ少なく、逆に劇場に負担がかかっているのが現状。数学を担当する倉本さんと英語、国語、社会を受け持つスタッフの平野さんが、時間を見はからい隣の塾へ走りこむ”かけ持ち”の毎日が続く。
 1年前までシネマテークのスタッフだった奥田徹さん=東京在住=は「倉本さんのために黒字企画を立てたかった」と反省する。名大法学部法律学科を昨年卒業、サラリーマンになって、連休にはよくここを訪れてくる。スタッフ時代、2年間に約100万円の赤字を作ってしまったとか。
 倉本さんは小津安二郎監督の「東京物語」が好きだ。
 映画を自分の生活にオーバーラップさせ、感情移入して見る映画観賞法。尾道から状況した老夫婦を子供たちが迎える物語に、心を打たれる。
 倉本さんは8人兄弟の末っ子。84歳の母がまだ健在だ。「なにか、不幸をしているような気がしてしかたないのです」と言葉をつまらせた。

(萩 誠記者)



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中日新聞 85/3/5掲載

 

 上映作品の選定から実際の上映まで、名古屋シネマテークでは一企画ごとにスタッフによる担当制をとっている。
 初公開の作品や「ドイツ映画大回顧展」といった大きな企画はスタッフ全員、あるいは複数で分担するが、短期の旧作上映会は一個人が担当するのが通例だ。
 これまで倉本さんを含めスタッフ12人のうち9人が経験済み。見たい映画を上映するシネマテーク路線の上にのって”個人的”にも見る側から提供する側に回る楽しみを味わえるというわけだ。
 だからバラエティーたっぷり、しかも個人の好みが出てユニークな企画が並ぶ。
 これからの企画では「妖婆、死棺の呪い」ロードショー(7−13日)。「アメリカ映画の夢と暗影E(ワーナー映画傑作選)と題して「狼たちの午後」」俺たちに明日はない」など4本上映。(14-19日)。「光年のかなた」ロードショーを中心に「アラン・タネール映画祭」(20日ー4月10日)と続く。
 劇場オープン以来3年となるとこれはもうおもちゃ箱でもひっくり返したようなにぎやかさ。監督特集、女優編、怪奇映画集、ロック映画に実験映画集など。なかには"倉本ボス”の意向にそぐわない企画もでてくるのでは?
 「あまり注文はつけないことにしています。自分のやりたい企画全面的に認めていく方針です」と当の倉本さん。
 洋画ポルノ上映会さえあった(山田鉄夫企画)
 「実はこちらがたきつけたのでして。一般劇場では敬遠する女性客もけっこう見に来てもらえました」というが、いくぶん照れごみ。
 スタッフではもっとも若手の専従の尾藤宏さん(21)=名古屋市名東区虹ヶ丘=は単独の企画を10回前後こなしている。「いずれも結果は悲惨なもの」と頭をかく。
 上映までは一貫して企画者が責任を持つ。まず、2ヶ月ほど前に作品選びが始まる。続いてどれだけ安くフィルムを手に入れるかが勝負。それからプログラムやチケットづくり。自分がイレ込んだ企画だけに広報活動にも熱が入る。
 そのひとつ。企画ナンバー”196”、昭和58年11月10日から15日までの「大菩薩峠」。一、ニ、三部に邦画を二本つけた6日間興行だった。
 結果・・・。邦画の旧作は必ず見る会員、なぜかお年寄りの女性を含め入場者数111人。フィルム代10万円はじめ経費は36万円ちょっと。22万2740円の赤字になった。
 「興行的に弱い企画は予想できるのですけど・・・・。でも、記録映画特集なんかやりたくてウズウズしています」。倉本さんには”頭は痛い”だろうが、その若さ、情熱は買わねばなるまい。

(萩 誠記者)


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中日新聞 85/3/6掲載

 
 シネマテークの活動は、これまで一般興行界が敬遠ぎみだったマイナーな作品紹介や各国映画祭、旧作上映などに重点が置かれている。「当たるか当たらないか」が最大の関心ごとである商業劇場とは根本的に違うわけだ。
 たしかに本数150本、1年を超える企画の「ドイツ映画大回顧展」や実験映画の上映会など一般劇場は見向きもしないに違いない。
 ところが最近、メジャー系の配給会社や映画館がマイナーな作品や旧作上映に接近する傾向が見られるようになってきた。
 名古屋市内ではゴールド・シルバー劇場(中村区・笹島)がヨーロッパのマイナーな新作を取り上げたり、「MGM/UAクラシックス」(日本ヘラルド配給)の名で旧作の大量上映に積極的。
 「大宣伝をくり広げても当たりはずれが多くなり、それなら安い作品を数多く入れて危険を避けるようになってきたのでは」という倉本さん。
 「苦しいですよ。だからといってどうこういえる立場でない」と極力、メジャーとの”まさつ”を避ける方針。
 「見たい映画を上映する」という自主上映会の性格から、地方の中小都市では「客を取られる」という映画館や配給会社のトラブルが起きている例があるという。
 「結局、私たちは観客の動向や興行界から無視された作品をひとつひとつ拾っていくのが務め」と”落穂拾い”を強調するが、その言葉には新しい活動への展開、新しい作品発掘の意欲が読み取れる。
 逆にシネマテークで上映された作品が、遅れて一般劇場にかかったことさえある。
 たとえば「ハンガリアン」(昭和57年12月)が2年後にシルバー劇場で「コンフィデンス」の併映作として登場。またナゴヤシネアスト時代に上映したインド映画「大地のうた」「大河のうた」「大樹のうた」(54年3月)がようやく昨年、この3部作そろった形で東宝東和配給で一般公開された。
 羽田澄子監督「早池峰の賦」(57年7月)は商業劇場も十分”色気”を見せた作品だが、同監督の希望からシネマテークで上映され、メジャーに一矢報いたかっこう。
 「これからも自分たちの目で作品をチェックしていきたい」という倉本さん。近くでは「アラン・タネール映画祭」(20日ー4月10日)に力が入る。
 「光年のかなた」ほかを上映する。「地味ですが、ゴダールやトリュフォーに近い作風の監督で若い人に訴えられえるのでは」と拍車をかけている。

(萩 誠記者)



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中日新聞 85/3/11掲載

 
 名古屋シネマテークのスタッフの”若々しさ”はこれなでしばしば紹介してきたが、実は、同劇場を支える会員やファン層は決して若くはない。現在、約500人いる会員の平均年齢は31.5歳と高く、しかも男女の構成比率が6対4になっている。
 14年前、倉本さんがシネマテークの母体である名古屋シネアストをスタートさせたときには会員の平均年齢が23歳。高校生、大学生が70%を占め、ずいぶん若かった。ただ、男女比は6.5対3.5で、ほとんど変化はないのだが━。
 旧作を中心に自主上映活動している同じナゴヤのシネマビレッジが平均年齢25歳ぐらい、また男女比が4対6と対照的だ。
 一般映画のファン層は若年化が進み、さらに女性客に結びついた作品がヒットするといわれる現在。”高齢化”男性優位”のシネマテークはまるで”映画の流れ”とは逆行しているようにも見える。
 「それがよくわからないのです。流行に取り残されたのかな」と倉本さんは首をひねる。
 女性スタッフの一人、武藤直子さん(26)=名古屋市守山区=は「劇場のイメージや上映作品にカタさを感じるのはたしか」と話す。大学時代、友達の間でもよほど映画好きでないことにはその存在さえ知らなかったそうだ。
 一方、シネマビレッジの主宰者・前川和明さんは「うちでもカタめの作品を上映すると、女性やヤングは観賞後にしんどそうな顔をしますからね」と笑う。なるほど、シネマテークのラインアップを見れば、その”カタさ”は明らかだ。
 「ラテンアメリカ革命映画祭」「ソ連邦・民族共和国映画祭」「南アジアの名作を求めて」といった企画のほか、アメリカ映画や邦画の旧作を取り上げる場合でも「アメリカ映画の夢と暗影」「溝口健二の世界」のようにテーマ性を持たせて上映してきた。
 「でも、その分、ここにやって来る人は研究心おう盛です」と武藤さん。ときには電話で映画論をぶつけてくる人もあれば、ロビーで資料室(雑誌2000冊、単行本800冊)の映画研究書を読む姿も目立つという。
 「決して、そのためにシネマテーク路線を変えることはない」と強調する倉本さんだが、女性ファン、ヤング層開発に努力する試みも怠らない。「高大生のための上映会」のタイトルで、邦画と洋画を組み合わせたユニークなもの。21歳の水谷伸ニさん=学生、名古屋市中川区=の企画で、そのねらいがふるっている。
 「洋画のムードでヤングや女性を引きつけ、実は邦画の良さを知ってもらいたかったのです」

(萩 誠記者)


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中日新聞 85/3/12掲載

 
 シネマテークの前身、ナゴヤシネアスト時代に、倉本徹さんは、自主映画の製作にかかわったことがある。
 名古屋大学の映研の仲間だった映像名古屋主宰・後藤幸一さん(40)=名古屋市天白区・自営=と共同で「夢あざけりし風のように」(昭和53年4月公開)と「沙羅」(55年10月)の二本を”地元”名古屋で撮り上げた。いずれも16_作品。
 二本とも後藤さんの脚本、監督、倉本さんは製作担当だった。とくに「沙羅」は脚本段階から完成まで、約1年かけた大がかりなもので、撮影中、公募で集めたスタッフはノーギャラ2ヶ月間拘束という”過酷”な条件。それでも金はかかる。フィルム代、交通費、撮影会場の借り代などで、さっと600万円かかった。
 シネマテークの仲間では尾藤宏さんが助監督でスタッフに加わり、平野勇治さんが”群集”の一人で出演している。
 上映は、まだ自分たちの劇場がないときだから当然、貸しホールで。「でも、結果は会場費が出ないくらいさんざんなものでした」と、いつものように”赤字数字”を並べる倉本さん。
 「夢あざけりし・・・」は、中小企業センターほかで入場者数318人(製作費約300万円)。「沙羅」は一般劇場(栄・東映ホール)でロードショー公開したほど力が入ったが、644人の有料入場者、招待客93人の”成績”だった。
 その10倍の入場者があって、ようやく製作費に達する数字なのだ。
 だが、倉本さんが製作に乗り出した”本心”は、興行成績にあったのではないようだ。
 16_による自主製作は当時、東京でもめずらしい段階で「それなら、ぜひ名古屋でも」との思いがあったという。
 規模(資金)もスタイル(16_)も、従来の8_製作とはケタ違いの映画づくりに挑戦して「これに触発されて、名古屋にどんどん後続グループが出てくれたら」という大きなねらいがあった。
 現在、シネマテークでは「全国映画交流会」(58年10月)のような形で自主製作映画を紹介している。
 「結局、ボクなんか製作するガラではなく、上映するのが合っているのですね。いま600万円あればですか?上映活動に回しますね。200万円の作品が3本手に入るのですから」
 スタッフの中では若い水谷伸治さんが、製作にも夢中のようだ。
 だが、倉本さんはニガ笑いしていう。「彼は、ボクの感性ではとてもダメ、理解できないっていうんです。で、見せてもらえない」

(萩 誠記者)



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中日新聞 85/3/18掲載

 
 名古屋シネマテークがある名古屋市千種区今池には、同劇場を含めて映画館が8館ある。
 これは名古屋駅前(東口)の12館に次いで第二位。栄、大須、納屋橋などの地区より多い。洋画、邦画の封切り館のほかポルノ上映館まであって、この今池かいわいだけで映画の”需要”はけっこう満たされるわけだ。これに商店街、飲み屋街を加えると繁華街、盛り場の要素は十分。
 シネマテークのオープンは昭和57年6月。その2年前の昭和55年から倉本徹さんは自分たちの劇場を持ちたいと思ったという。だが、「とくに今池を意識したわのではない。たまたま条件にあったったスペースが見つかったから」だそうだ。
 けっして”盛り場”あるいは”映画街”としての今池のイメージから場所選びをしたのではない。建設費を含め1300万円ではとてもそんな”ぜいたく”はいっていられないし、むしろマイナス点のほうが目立つくらいだ。
 にぎやかな今池交差点から約100bの地点。だが、大通りからはずれた小路の一角にあるビルの中。飲み屋、マージャン荘、ビデオショップが雑居していて、劇場がそこのあるとは思いにくい。電話による問い合わせが多いのもそのためだ。
 小路の至る所に赤ちょうちん、ネオンの渦。夜は飲み屋街に一転する。2月から施行された新風俗営業法によっていくぶん”静か”になったものの酔漢うろうろの光景は、劇場の終わる午後10時、11時まで。
 「アルコール厳禁のシネマテークにときたま酔っぱらいが入って来る」「今池全体として見てもファッション性に乏しい」とあ女性スタッフ自身の声だ。
 今池を明るい、若向きの街にしたいという思いは商店街でも同じ。
 シネマテークが所属する銀座通発展会の副会長・大脇利治さん(48)=名古屋市千種区今池1ノ17ノ3=は「シネマテークができたのは歓迎です。商店会の青年部を中心に新しい今池を目ざしているのですが、具体的にどうするか。また明るいイメージをどう市民に訴えていくか模索の段階です」と頭を悩ましている。それに発展会のメンバーの年齢差もあって、ヤング指向一辺倒に難色を示す向きもある。
 だが、女性にモテモテの町、神戸出身のスタッフ・和気克子さん(20)=学生・名古屋市千種区作掘割町=は「神戸の盛り場、元町のほうがこわい。今池はなにより発展性が感じられる」と力強い。
 倉本さんはジープを持っているし、山田鉄夫さんはタクシーの運転手さんで自家用車がある。「電話してもらえばすぐに迎えにいきます。もちろんサービスです」

(萩 誠記者)


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中日新聞 85/3/19掲載


 
 昨年11月末、名古屋シネマテークで勅使河原宏監督のドキュメンタリー映画「アントニー・ガウディー」が上映された。名古屋初公開作品。
 「うちの劇場にとってこれが文字道り"救世主"の存在になりました」とめずらしく顔をほころばす倉本徹さん。
 11月28日から12日までの公開で入場者数4270人。さらに12月20、21日に名古屋駅・中小企業センターで追加上映され943人、合計5213人の入場者になった。
 「ドイツ映画大回顧展」とか「フランス映画祭」といった長期で、しかも上映本数の多い企画とはわけが違う。これはたった1本であげた記録なのだ。
 企画が出たのは昨年9月ごろ。作品に目を付けたのは平野勇治さん、柳瀬昇さん(22)=学生、名古屋市千種区千種=の若手スタッフ。名古屋市内の音楽関係団体も同時に名乗りを上げたが、ナゴヤシネアスト時代に「砂の女」ほか同監督作品を4本上映している”実績”もあり、シネマテークにフィルムが回ってきた。
 折りからスペイン・バルセロナにあるガウディーの建造物がコマーシャルフィルムに登場するなどガウディーブーム"。それでも倉本予想は「せいぜい1週間、千人の入場者ぐらい」と踏んでいた。
 平野さんらの広報活動も熱が入り、がぜん火が付いた。フタを開けると連日満員。わずか50席の劇場でもうまく観客の回転がきいた。それでも午後7時からの最終回には勤め帰りのサラリーマンがあぶれたこともあった。
 ガウディー公開前の昨年秋は新作が続き赤字ばかり。借金がかさんで「また会員のカンパに頼らねばならないと思った」(倉本)矢先だけにこのヒットは大きかった。まさに"救世主"的作品であるにちがいない。「ねらって当たるものではない。タイミングだけだったですね」と目を細める”功労者”の平野さん。
 「うれしいですよ。これがないと今後の企画が消極的になるおそれも十分ありましたから」と倉本さんはヒットを喜ぶ。
 ただ、周囲の声も聞き逃せない。「だからといってあまり打算的にならないでほしい」「第二のガウディーを期待せず、これからも地道に独自の路線を守っていきたい」など。
 倉本さん自身「アントニー・ガウディー」は一度あるかないかの超ヒット作と考えている。
 ヒットを意識して上映活動を展開しているのではない。来年度(4月から)の企画では「とても当たりそうにないマイナーな新作」が全体の3分の2を占めているほど。シネアストたちの”苦戦”、いや奮闘は当分続きそう。

(萩 誠記者)



<11>
中日新聞 85/3/25掲載


 
 3月14日、「アメリカ映画の夢と暗影E」の企画がスタートした。「狼たちの午後」「俺たちに明日はない」の二本立て。この日、いったいシネアストたちはどんな動きをみせたか? スタッフの一人、水谷伸ニさんがスケッチしたシネマテークの一日・・・・・。
 朝、11時過ぎ、シネマテークに着く。入り口のところでBさん(尾藤宏)に会う。きょうは初日なので、いくぶん緊張ぎみなのがわかった。
 フィルムをセッティングして間もなく、お客さんが一人やって来た。40分前である。そのあとぼちぼち客足が目立ち始め、上映開始時間の11時50分で20人くらいになった。これならよし。木曜日の、初日のスタートとしては悪くない数字だ。学生が大半。
 上映が始まってしばらくたったころ、この上映の企画者Y氏(柳瀬昇)から電話が入った。初回の人数を報告すると、少しホッとしたようすだ。
 Hさん(平野勇治)、Kさん(倉本徹)が登場。
 映写室から聞こえてくる音がよくない。フィルム状態が悪いようだ。トラブルはけっこうある。いつだったか音が出ないこともあったし、フィルムを巻き戻していないため逆回りに映ったこともあった。一体、何が起きるかわからないから初回はとくに神経過敏になる。
 昼ごろT君(土屋勝=学生・名古屋市千種区城木町)が顔を出す。T君はシネマテークの近くに住んでいるせいかヒマ?になるとよくやってくる。当然のことながらスタッフが一人でも多く集まれば、にぎやかになるし、楽しい。
 お客さんの入りがよくなってきた。このまま上り調子だといいが・・・。
 夕方、Kさんがジープにフィルムを積んで出かけて行った。このジープ、新聞社の支局から払い下げてもらったものとか。T君とこの前見た映画(「ハレンチ学園」)について語り合う。私は「おもしろい」、彼は「つまらない」の結論。これでは外野のBさん、Hさんだって「見ようか、否か」迷うに違いない。
 夜、Wさん(和気克子)、Y氏が来た。Wさんは明日、帰省する。
 午後8時5分、最終回が始まり、私とWさんで売り上げ計算。Bさんはトイレとサロンのそうじ。
 Bさんはそうじのあと、Y氏と企画中の作品について打ち合わせている。私はもうボケーッとした状態だが、聞いているだけでY氏の力の入れ方が伝わってくる。
 9時50分、上映終了。場内のそうじ。Bさん、Hさん、T君と雑談。いこいのひとときだ。Bさん、Hさん、私はたばこをすう。T君はお茶だけ。
 午後10時20分、火の確認、戸締りをし各自帰途につく。わりにノーマルな一日だった。

(萩 誠記者)


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中日新聞 85/3/26掲載

 
 名古屋シネマテークの仲間たちがある日、つぶやいた声をいくつか拾ってみた。だが、これは”つぶやき”ではなく”叫び”なのかもしれない。
 「だれもが自分の見たいものを自由に見られるようになればいい。ところが、いつものことだが、その自由を毛嫌いする連中がウジウジャいる。そんなやつがいる限り、このシネマテークも続いていかなければならないのだ!」=平野勇治(23)
 観客へ・・・「大宣伝映画ばかりでなく、話題にならない作品の中にも感動する作品が必ずある。そういう作品は批評家らの手アカにまみれていないだけに出会ったとき、探し出したときの楽しみは必ず倍化するでしょう。好奇心を持ちなさい」=倉本徹(39)
 製作部門へ・・・「映画が時代を映す鏡であるなら、今日の日本映画の多くは時代を映していないかもしれない。時代を映した映画はいつ見ても必ず人の心を震かんさせるものである。観客にコビを売りなさんな」=同
 「枯れちまった老人はもう眠れ。若いのに枯れちまった若者も眠れ。固まった脳ミソは二度とやわらかくなることはない」=水谷伸ニ(21)
 「とにかく映像ーVIDEOがもてはやされる今日このごろだが、その真価を十分に評価しつつも、SCREENを忘れるなかれ。ブラウン管とスクリーンの違いは大きさだけではないのだ」=土屋勝(20)
 「映画において東京中心志向というやり方をやめてもらいたい。主催者が他の地域への貸し出しをしないのである。元来、映画は多くの人に見られて初めて存在価値が出てくる。自分で自分のクビを絞めているだけのことだ」=山田鉄夫(33)
 「芸術作品である”フィルム”が、利潤追求の原理に基づく映画産業から生み出される。本来なら、公的な組織が補完すべきことを”自主上映団体”が行っているのが、現状だ」=柳瀬昇(22)
 「肉体の老化に伴い、己の肉体からはエロスが消失していくが、それを注入し、際立った美しさを放つ映像を作りうる、ただ一人の作家を登場せしめたるためにも、スクリーンを死守せねばなるまい」=尾藤宏(26)
 「美術館もよいけれど、フィルムライブラリーも考えてほしい。東京は例外としてもすでに京都、広島には存在する。ハデなことばかりに心を奪われなさんな。補助金もちょうだい」=倉本
 「堅実さを誇る名古屋財界は”文化”に口出ししない金を出すべきです。とくに、本社ビルに貸しホール(フロアのみはダメ)を持たない企業は、早急に、安く貸せる、400人規模のホールを造るべきです。太っ腹のところを見せなさい」=同

(萩 誠記者)
= おわり =