設立○○年

『シネマテーク通信』とは、毎月10日前後に発行されている名古屋シネマテークの情宣紙で、A4・4ページ立てで、スケジュール表・作品解説・評論・広告ページに分かれています。
その評論ページを使って、毎年6月〜8月に、設立○○年と題して、そのときの気持ちや問題点などを伝えています。多年度に亘って、掲載したのがこのページです。
次なるステップのとき、その責任者の心の葛藤?がどのような推移を辿ったのかが、一応、一覧できるのではないかと考え、公開しました。

 

●設立22年    03年8月号

●昨年はお休みさせていただきましたので、2年ぶりの登場です。
●2000年から3年続いた【名古屋シネマテーク】の低迷状況から、2月以降それなりに順調に推移しております。ただ、興行界は水物の世界であり、今後どのような展開になるのかは予断を許さないことには変わりはありません。川下である当館が最悪の状況であったということは、長年お付き合いいただいております配給各位におきましても、厳しい事態が続いていたものと推測されます。
●このような状況に陥った要因は、観客の嗜好の変化もさることながら、日本における公開作品数の増加、それによる作品の枯渇が影響しているものと思われます。作品数の増加は、今だ沈静化しないシネコンの増設、そこへの作品の供給の必要性などによるものです。
●以前には、いわゆるミニシアター系の作品においても、入る作品から中規模の作品、入らない作品まで、均等に存在していましたが、ここ数年は、中規模の作品が減少し二極分解を招いておりました。このことは、現在の世界的潮流においても同じことが言えるのかも知れません。西部劇・カーボーイ(騎兵隊)の主役を演じている方がいらっしゃいますし、それに迎合した脇役が大勢いらっしゃいます。
 右へならえ的傾向、少数者の意見が無視されていく傾向は、今後もさらに加速していきそうです。
●そのような中で、少数者の意識を表出し続けて、70年代を疾走したプロデューサー・前田勝弘氏が、今年5月2日、リハビリ中の大阪で焼死されました。行年62才。代表作には、【サード】(78年東陽一)、【ラブレター】(81年東陽一)などがあり、【チー公物語】(91年)がプロデューサーとしての遺作になりました。
 92年2月に他界した小川紳介(行年56才)に続く、60年後半以降の自主製作に携わった映画人の死去でした。
 ここにご冥福をお祈り申し上げます。
●最後になりますが、名古屋シネマテークの巣立ちも思うようにいきません。今年こそは、と思いつつ、年輪だけが刻まれていくようです。

設立20年    
02年6月号

●当・自主上映館【名古屋シネマテーク】も今年で丸丸20年を迎えることができました。これも映画ファンの方や配給会社、クライアント、大家さん、様々な分野で活動されている方々やお見せの方のお陰と感謝しております。
●20年は一つの過程でしかすぎません。上昇の過程なのか下降の過程なのかは知りませんが、なかなか飛び立てないのが現実です。それが見えない段階で、華々しく【20周年記念】と銘打ち、企画を打ち出すのは気が引けます。
●しかし、小川紳介が亡くなって10年の歳月が流れましたが、シネマテーク設立の意図の中に、小川を含めたドキュメンタリー映画の上映・紹介作業が入っております。厳しい中にあっても、一つの節目として、小川プロ作品の上映を、【20周年記念】として提示させていただきます。
●奇しくも小川の生きた56年の時間を、+αで私も生きたことにことになります。後で分かったことですが、誕生日が同じ6月25日。10才違い。連れ合いの父方の姻戚筋に当たることも分かりました。
●小川は亡くなる前に【山形国際ドキュメンタリー映画祭】を89年に仕掛けました。単独のドキュメンタリー映画祭としては世界で唯一でした。
 その後、台湾でも開催されるようになり、また、今年のカンヌ国際映画祭では、46年振りにドキュメンタリー映画がコンペ部門に出品された。
●後年、ドキュメンタリーと劇映画の垣根を取っ払おうと尽力した小川の意図が、徐々に浸透してきているようです。
次回はいつになるか分かりませんので、是非、ご覧いただければ幸甚です。

設立18年    2000年7月号
              
●82年6月にオープンしてから18年の歳月が流れました。7年ほど前から叫んでいる移転問題も、またもや解決をみることなく、この1年が過ぎ去ってしまいました。
●その間に、既存の映画興行界には昨年から今年にかけて、映画館を取り巻く様々な情報が飛び交っています。
 名古屋駅前のビル再開発
 栄・三越南の再開発
 吹上のサッポロビール跡の再開発
などなど。
 その原因の多くは、シネコンの席巻と市内進出にあるようです。そのため、名古屋駅前の映画館の集客力に衰えがみられ、座して死を待つか、果敢に攻め入るか、の二者択一を迫られているのが、名古屋の興行界の現実のようです。
●さて、我がシネマテークは、と言えば、なかなか難しそうです。その原因は、
@1フロア100坪前後で、梁下3m
Aロケーションは、名古屋駅〜伏見〜栄、次善の場所としては、大須、千種〜今池の地下鉄の駅に近い
B家賃+共益費=1.5万円迄(伏見で)
の条件での物件が見つからないためです。
 当然、設立資金の調達も問題にはなりますが、ある程度までは集められる、との前提にたっての話です。実際には、胃潰瘍の再発が考えられますが。
●100坪に拘るのは、2館併設を前提としているからです。A館は100席前後、B館は30席〜40席。A館である規模の作品を上映。B館では収支に捕らわれることのないマイナーな作品、及び、実験的な企画を提示できる場にできるはずです。。
 A館だけでは、スタッフを含めてこれまでの参加者の精神衛生上、よろしくない状況に陥るのは目に見えています。
 作ってしまえば、収支はトントンまでもっていくだけの自信はあります。
 可能性はなきにしもあらず。その節にはみなさんのご協力を!予め、名乗り出ていただければ大変助かります。
●一昨年は、「ムトゥ・踊るマハラジャ」効果で、それまでの赤字を一掃しましたが、昨年は、赤字に転落。今年も回復は難しそうです。その原因は、入る作品と入らない作品の2極化が顕著になったためです。そこそこの赤字を出す作品と、そこそこの黒字を出す作品で、収支を合わせられればよかったのですが、そこそこの黒字を出す作品が減少してきたためです。

設立17年 
99年8月号

●82年6月にオープンしてから17年の歳月が流れました。昨年は、14年振りに「アントニー・ガウディー」を抜いて、「ムトゥ・踊るマハラジャ」が新記録を達成。その他の作品も健闘し、トータルでも設立以来の動員数を記録しました。消費者である観客の多様化した嗜好を敏感に捉え、ポリシーを持った中小の配給会社の、先駆性と先見性の確かさを実証した結果です。それを真似るのは、ポリシー不足の大手配給・興行会社の為せる技。しばらくは、その影響から抜け出せないようで、4月以降、低迷を続けていますが、成瀬巳喜男の旧作など、収支を気にすること無く上映できましたことは、昨年度の蓄積(?)があるからです。
●愛知県芸術文化選奨文化賞(副賞100万円)を受賞しました。この賞の受賞対象の多くは、演劇や音楽などの表現者(団体)や地域文化に対する研究者(団体)などが中心だったのですが、表現物の紹介者(団体)を初めて認めたことは、選定委員の見識を高く評価したいと考えています。当然、受賞できましたのは、一重に長年にわたって支えていただいた皆様のおかげと感謝。
●シネコンの全国展開にはめまぐるしいものがあります。そのほとんどは外資系であり、郊外型・地方型ですが、東宝・松竹・東映が大同団結して民族系・都心型に変化しそうな雲行きです。シネコン同士の潰し合いの様相を深めています。また、作品の枯渇によって、ミニシアター系の作品が上映されることもありますが、本腰を入れて取り組むことはないでしょう。
●いわゆるミニシアターは、土着興行会社の空きスペースの有効利用だったり、興行には素人である(あった)映画ファンや中小配給会社などによって展開されてきました。ここにきて、民族系の大手配給会社の手によって、東京を皮切りに大都市での展開が図られ、ミニシアターの後進地域であった大阪では戦乱期を迎えています。しかし、採算性のなさそうな作品をいつまでも上映することはありません。それが、資本の論理です。
●これまでは《待ち》の姿勢だったのですが、昨年はそれなりに積極的に新しい展開を模索しました。しかし、適当な場所に、適当な単価で、適当な物件(90〜100坪、梁下3m)が見つかりませんでした。理想を追い求めているためなのかも分かりませんが、難しそうですネ。
●状況に右往左往すること無く、この1年を駆け抜けたいと考えています。

 
設立16年
 98年8月号

●82年6月にオープンしてから16年の歳月が流れました。この1年、昨年同様、新しい展開を提示することができませんでした。力のなさを痛感しています。
 今年、自主上映のときの仲間だった人たちが、札幌ではシアターキノが100席と60席の空間を作り上げ、大阪ではシネ・ヌーヴォ(76席)が休館していた映画館(63席)を改装し新たに運営することになりました。
 しかし、名古屋シネマテークは、未だその光すら見えていません。それに業を煮やした山田寿男氏から、先月号で[愛のメッセージ]をいただきました。決して、今のままで、これからの5年なり10年なりが乗り切れるとは思ってはいませんが、収支を考えながら、配給及び我々スタッフが十分満足できる[物件]が見つかったときには、行動を起こす所存でおります。みなさんからの情報をお待ちしています。必要な広さは100坪強が理想です。100席と30席のスペースができたらいいなと思っています。100席は配給からの要請、30席は企画の自由さを確保するためのスペースです。
●さて、現在公開中の「A」について、若干コメントさせていただきます。
 ドキュメンタリーを作るとき、その対象に対する立場が明確なほど作品のグレードは上がり、我々観客を楽しませてくれます。
 事件に直接関与しなかったであろうオウム信者にスポットを当てたとしても、オウム側に立った作品であり、立場の明確さから見る価値のある作品です。ただ、多くの人たちを被害に巻き込んだオウム真理教を許すことが出来ないのは、我々も、また、監督自身も同じだと思います。
 オウム・バッシングは、親の行為の責任を子供がとる(その逆が普通か)、といった日本的風景が如実に表れた現象でした。オウムを否定するだけでは解決できません。もっと根本的なところ、寄る辺なき若者の身の置き所をどのようにしていくのかを考えずして問題の解決はないはずです。
 もともと国家を頂点とする[組織]は、犯罪の巣窟です。米軍のベトナムでのサリン散布疑惑、旧日本軍の南京虐殺はいうに及ばず、大蔵省や野村証券などの腐敗・不正、愛知万博や藤前干潟問題など県・市の対応、そして、「A」で映し出された国家権力「公安」の漫画チックな犯罪者の捏造過程、テレビ局の取材方法など、すべて[組織]の持つ怖さではないでしょうか。オウムもまた、[(国家)組織]だったのです。
 以上の観点から、上映する次第です。

 
設立15年
 97年6月号

●82年6月にオープンしてから15年の歳月が流れました。数年前から新しい展開を、と叫んではいますが、実行に移せないのが現実です。私のせいですが。
 その間、名古屋においてもいわゆるミニシアターは増加の一途をたどっています。その要因は、大動員できるような作品が減少し、500人を越える映画館の収益性が悪化してきたために、小規模劇場に切り替えただけに過ぎないのが現実でしょう。全体の観客数を増加する施策を講じない限り、映画館の永続性はないと、思うのですが。
●さて、昨今、名古屋においても公的機関が映画の上映をする機会が増えています。そこでは、フィルム代も回収できないため上映される機会が失われていた実験映画や記録映画などを丁寧に紹介している会館もあります。が、ある映画祭では、会館の理念の正当性を声高に叫ぶわりには、他者への配慮が欠如しているようです。
 それは、配給会社などとの交渉にも表れています。出したがらないのはそれなりの理由があるはずです。止む終えず出すことを決断しても、条件面で折り合う姿勢がないのはいかがなものでしょうか。本当にやりたければ何らかの方法はあったはずです。また、何も反対しているわけでも、協力しないわけでもない団体を、自分たちの意志通りに動いてくれないからと「非協力者」のレッテルで映画業界の中で風評する始末ですから、困ったものですね。
 昨年などは、外国からきた監督と日本の監督にはさまざまな面で待遇に差があったと聞き伝えられています。昨年来館した日本の監督が強いて来たいと思わないのは当然でしょう。会館の崇高な理念からも招聘者は同等に扱うべきはずです。また、万博をやろうとする自治体の外郭団体が国際映画祭と銘打つ以上、テーマと密接に絡むはずの同性愛にも目を向けるだけの度量がないと、世界の物笑いの種にされかねません。老婆心ながら、付け加えさせていただきます。
●最後に、数ケ月前に金魚のために日本のウキクサと外来産のウォータレタスを買ってきたのですが、外来産の繁殖力はすごい。遠慮会釈なく水面を占拠してしまいそうです。冬には枯れるとのことですが、日本産のウキクサの運命とともに、シネコンの全国展開、それに伴う映画興行地図の変貌が気になるこの頃です。
 

設立14年 96年6月号

●82年6月にオープンしてから14年の歳月が流れました。その間、名古屋の映画状況も様変わり。否、名古屋の映画のみならず、日本における様々な状況も私個人の環境も大きく変化しています。
 映画興行では、外資系の映画興行会社の上陸があげられます。その中で、全米第2位の映画興行チェーン「AMC」が福岡において13スクリーンを開設しました。低料金を視野に入れての展開を考えているので、治外法権だった入場料の価格破壊も時間の問題といえるでしょう。
 名古屋では、以前からのヘラルドに加えて、ミニシアターに関心の無かった中日本興行も2館目を作って小映画館の運営に力を入れてきています。収益性が第一義の興行会社にとって小劇場の運営は魅力的なんでありましょうか。「AMC」などとの差別化を模索しているようです。
 昨年のこの欄でも書きましたが、小手先の方向転換ではなく、映画ファンの増加対策に力を入れて欲しいと思うのですが、その兆しは未だ見えてきません。小さなパイの食い合いや価格破壊では、映画興行に未来はありません。抜本的な対策を大手興行会社に望みたいと思います。
●映画製作では、過去の遺産であるソフト(映画作品)の活用によって情報時代を生き残ころうとしている邦画3社に見いだせない光も、一つ一つの作品で勝負をかけざるを得ない製作者や監督たちによって日本映画は徐々に蘇生しつつあると信じています。彼らの作品を最後のところで上映できる場として(設立の1つの目的でもあった)、当館は機能していきたいと考えています。それに対応できる劇場作りも合わせて考えていきたいと思います。
 昨年の猛暑の中で、広葉樹のベンジャミンの植木が葉を落とし、確実に枯れてしまったと思ったことがあり、捨てようかどうしようか春先に迷っていましたが、枯れたはずの幹に数日前から葉がはえだしました。生物の生命力の強さに改めて感心しました。
 日本映画も決して終わってはいません。終わりつつあるのは、収益性を第一義にする製作形態、興行形態なのです。映画ファンの立場に重心を置いて考えれば、映画は生き残れると確信しています。これからの1年、頑張ります。御注目下さい。

 
設立13年  95年8月号

●82年6月にオープンしてから、早いもので13年の歳月が流れました。これも、幾多の方々のご支援、ご協力のおかげと感謝しております。
●さて、今年は《映画100年》ということで、監督別、製作者別、国別、製作・配給会社別など様々な形で回顧上映が行われています。これは、消費と考えられてきた映画が文化(表現)として見直されてきた徴候と捉えることも出来ますが、逆に、今の映画が魅力的で無くなってきたためなのかも分かりません。
●東京では、都市(ビル)再開発などによって、新しい映画館が大小取り混ぜて陸続とオープンしています。新規配給会社の登場もあり、様々な映画がより多く提供されています。日本映画に目を向けると、新しい製作会社の設立によって、若い監督も誕生していますが、キャリアを積んだ監督の作品は相変わらず少ないのが現実です。
 一方、地方の映画興行の世界にも変化の兆しが見られます。シネコン型映画館として桑名に登場した外資系のワーナー・マイカル・シネマ(8館、476席〜144席)や岐阜の地元興行会社が作ったシネックス(4館、292席〜69席)などです。このことは、興行の世界がまさに戦国時代を迎えたことを物語っています。当然、これらの映画館でかけられる映画の多くは、封切り作品であり、それなりに興行力のある作品が中心になるだけで、少数(?)の映画ファンのための映画はこれまで通り無視されることになるでしょう。ただ、価格破壊の波(デフレ)が押し寄せてくることは確かなようですが。
 これらの潮流が、果たして映画を復活できるかどうかは疑問視せざるをえません。新しい映画館や作品を見にきた新しい観客を映画の虜にするには、彼ら自身が映画を「発見」する場が必要だからです。そのためには、安価な名画座の存在が重要な位置を占めるはずですが、皆無に等しいのが現実です。理由としては、製作・配給会社の旧作の出し惜しみがあり、大手興行会社の目先の利益優先主義があるからです。
 14年目を迎えた当館も、興行の波に揉まれる運命にはありますが、立脚点を明確にしながら、これからの1年をまず乗り切っていきたいと思います。(それにしてもどこか適当な場所がないかなぁ!)

 
設立12年 94年7月号 

 82年6月にオープンしてから、早いもので12年の歳月が流れました。
 この間、順風満帆というわけでありません。座礁の危機も何度かあり、その都度、何とか航海を続けてこれたことは、幾多の方々のご支援、ご協力のおかげと感謝しております。
 この12年間では、当館のような、既存の興行会社によらない映画館、それも映画好きが作った映画館が、全国各地で、それなりに増えてきております。東京の「ユーロスペース」、新潟の「シネ・ウィンド」、大阪の「シネマ・ヴェリテ」、大分の「シネマ5」、京都の「ベンゲット」、札幌の「シアター・キノ」などです。名古屋の「シネマスコーレ」もその1つです。(反面、運営に失敗したところもありました。その原因は、映画を商売と考えたことにあったようです。札幌の「ジャブ70」、福岡の「シネテリエ天神」、東京の「キノ青山」です。)
 昨年には、大阪の十三に「第七藝術劇場」が開館しており、代表は『月はどっちに出ている』を製作した配給会社シネカノンの李氏です。今年9月には、東京の東中野に「BOX東中野」という映画館がオープンします。責任者は『パイナップル・ツアーズ』を製作した代島氏と「ユーロスペース」から転出する山崎氏です。また、高崎では「高崎映画祭」を主宰する茂木氏が地元百貨店の中に映画館を作ろうとしています。(みんな、頑張っているんだなぁ)
 しかし、それに反比例して自主上映という形での上映体が少なくなってきており、京都の「RCS」を除けば、あまり目立ちません。もともと自主上映から派生した当館としては寂しい限りです。
 これから何年持続できるかどうかは分かりませんが、「見たい映画だけを上映して見る」という自主上映のときの気持ちと、維持するための商業性の責めぎ合いの中で、難破しないように今後も頑張っていきたいと思います。

 
設立11年、先祖返りの映画状況 93年7月号

 大学映研主催で、自主上映を始めたのが、71年1月。そして自主上映館・名古屋シネマテークを設立したのが、82年6月のこと。それぞれ、11年を経たことになる。
 さてバブル経済による異種企業の海外映画の買いあさりによって、世界でも類をみない公開数となったのは、数年前。その崩壊によって、公開作品はめっきり少なくなってきた。残されたものは、ヴィデオ販売や衛星放送を当てにした中途半端な輸入によってもたらされた旧作の枯渇であり、版権の高騰であった。バブル時であれば、異種業種からの資金導入で、マイナーな配給会社の思いを満たすことは可能であったが、その後、独立採算を余儀なくされている。このことは、良質の作品の不足をもたらすことは明らかであり、適正供給の維持を危うくする。
 事実、一昨年からその傾向にある。川下に当たるいわゆるミニ・シアター、それに位置する名古屋シネマテークも企画立案に苦慮し、綱渡り状態が続いている。それが解消されるのは何時か。されないまま、時間だけが過ぎ去り、恣意的な映画ファンに見捨てられることのないように心しなければならない。
 20年前の“見れればよい”というアングラ的な状況ではないが、シネクラブ的な発想が再度必要になる可能性は残されている。しかし、ファッションとして席捲されてしまった映画観客層を、どこまで呼び戻せるかに、その成否がかかっている。以前と同じ形にはならないであろうが、今の映画状況を打開するのは、もはや、シネクラブ的発想しかないのではないかと思う。

(追)昨年2月に他界した小川紳介の発言集が、今年10月に刊行されるという。一つは、
  大手出版社から、もう一つは、名古屋シネマテークから。テークからのものは、89年
  7月、4夜にわたって行った《小川プロの映画術》の講演録である。その再録・編集作
  業を続けているが、日常の業務に追われてはかどらない。小川プロの作品を彷彿さ
  せる《百科事典》的な講演記録に仕上げたい。世界的な作家であるにもかかわらず、
  氏に関する出版物はなく、昨年の《小川紳介を語る》とともに、小川紳介、及び、小川
  プロの再評価のきっかけになれば、と思う。
 

設立10年を迎えて 92年7月号

 82年6月26日にオープニング前夜祭を行ってから早や10年の歳月が流れた。3年持てばよいと言われていたのだから名古屋の七不思議に数えられても可笑しくはない。それもこれも、家主、配給元、出資者、クライアント、会員・観客、それに、日常の仕事に携わっているスタッフのお陰と感謝している。
 さて、この10年、シネマテークを取り巻く状況も大きく変化している。
  @いわゆるミニ・シアターの隆盛と停滞
  Aヴィデオ・ブームの到来と陰り
  BCATVの普及と衛星放送の開始
などである。
 これらの現象はシネマテークにも影響を及ぼしているが、詳しく(?)は、朝日新聞6月5日夕刊を見ていただくとして、ここでは、小屋の問題と企画面の問題を若干述べさせていただきたい。
 小屋の問題でいえば、設立当時は「小屋さえ持てればよい」との考え方で、資金の不足も手伝って、安普請で小屋を作ってしまった。その付けが、10年を向かえた今日、重圧となってのしかかってきている。それは、内装関係や機材においてである。数年前より順次改装しているが、未解決の部分が多い。それらを今後数年間で改善していかなければならないと思っているが、どこまで出来るかどうか不明である。
 企画面の問題でいえば、新作公開に追われて一般の映画館との差別化が図れないでいる。それを克服するために、講演監督などの「講演集」の発行、映画資料室の開設を行い、外部の人達の協力により8_映画製作講座を開始した。これをムーブメントとして、活力あるシネマテークを作り上げたいと願っている。
 又、多くの人達によって作られたシネマテークであるがために、10年を振り返りながら、これから、どうあるべきか、との問題を一度整理する必要があるように思う。そのため、3周年にも行ったような小冊子を年末までには出し、それを経て、次の5年、10年に繋げたいと思っている。そのときには、ご協力を!

(追1)今年の2月7日、小川紳介氏が急死した。その追悼上映会を開催中で是非参加していた  だきたい。
(追2)今年の夏の目玉となるであろうクローネンバーグの新作「裸のランチ」を、8月8日より公  開する。乞う!御期待。
 

設立9年を経て 91年8月号

 早いもので、この6月で名古屋シネマテーク設立より9年の歳月が流れた。来年は、当然ながら10年となる。10年となると、1つの節目として、何らかの記念企画を呈示しなければならないのであろうが、それについては、今後半年のうちに考えることにしたい。
 さて、設立当時は、いわゆるミニ・シアターなるものは、まだ珍しい存在であった。ビデオ・ショップなるものも、出現していなかったように思う。当然、衛星放送など考えられない時代であった。世界各国の作品が現在のように見られるとは、誰が思ったであろうか。そのため、自主上映や《良質》の作品を上映する映画館の存在は、映画ファンにとって必要不可欠なものであった。
 しかし、80年代後半からのビデオ用ソフトの充実、ケイブルテレビ、並びに、衛星放送への作品供給のための輸入作品の増加は、映画作品の過剰なる供給過多を招いた。その悪弊が、まず保証興行という名のショーウィンド化で始まり、ミニ・シアターの自主性の欠落となって現れた。
 また、新作不足による旧作の未輸入作品の買い漁りにより、今後の安定供給を不安定なものにしてしまい、さらに配給権の高騰による《個性的》な小配給会社の存続をも危ういものにしている。当然、単館あたりの入場者数の減少をも招き、自主性の強いミニ・シアターは、その存続を脅かされることになる。まさに、《冬の時代》の到来である。
 20世紀最後の10年間に、映画状況はどのように変質していくのであろうか。生き残りをかけたサバイバルが、配給会社・映画館を問わず過去にも増して過激に繰り広げられることであろう。その先に、自主上映的なものの必要性が叫ばれる時代が来るのであろうか。
              ※    ※    ※    ※    ※    ※
 以下は、昨今の動きである。
 @自主上映が担ってきた《実験映画》《記録映画》《アニメ》などは、公的機関で見られる
  機会が増加しそう。
 A《日本映画》は、裏方の後継者不足から質的低下が叫ばれているが、国立の映画大
  学設立の動きがある。
 B《映画配給》では、買い漁りや高騰の原因となったビデオ会社や商社が収益性の低さ
  から縮小傾向にある。
 C《映画興行》では、外国資本などによる複合映画館の展開により一点集中がさらに加
  速しそう。

まる8年、テークは生き残りました。少しでも長く続けていきたいと思っています。
           
90年8月号

●いつものご挨拶になってしまいますが、「3年持てばよい」との観測の下、オープンしたのが82年6月26日。爾来8年の歳月が流れ、一部では「名古屋の七不思議」の1つに数えられております。
●さて、8年も経ちますと、いろいろなものがそれなりの変化を遂げるものです。設立の趣旨とその後の変化の様子を自分なりに若干整理しておきたいと思います。
T.設立時の方針と現状
  @マイナー系新作の上映
  A旧作の上映
  B記録映画の上映
  C資料の充実
  D討論会・勉強会の開催
  現状@ミディアムなものを含めて実行。
     Aレイトショーで企画。不満はある。
     B製作本数減少下、可能な限り上映。
     C新本は補充。古書まではまわらず。
     D未実行。やりたい気持ちはある。
U.参加者の変化
  @設立時の協力者が少なくなり、女性・学生層が増加。現在の学生割合24%。
  A嗜好の多様化と他館との同質作品増加のため、1作品毎の参加者数が減少。
V.状況の変化
  @ビデオ・有線・衛星放送絡みで作品数だけが増加。小粒になりフローしきれない
    のが現実です。
  A冠興行・(配給側が上映経費を負担する)保証興行が増加。上映側の主体性をい
    かに守るのかが問題です。
●当・自主上映館の設備面をみてみると、当初の安普請の影響がもろに目立ってまいりました。映画さえ見れればよいという人が少なくなり、同じ金を払うなら贅沢な環境で見たいと望む人が増えてまいりました。この傾向は映画に限らないことではありますが、当館としても、生き残るためにはそれを無視できないのが現実です。
 一昨年より、映写関係を徐々に新しくしてきておりますが、今年は観客席に重心を移していきたいと思っております。まず、手始めに客席を新しくすることになりました。早ければ9月初めになる予定です。
 また、資料関係の整理も進めて行く予定でおります。そのための空間を確保する必要があります。
 当然、フロア・トイレ関係、音響関係などもありますが、何分にも先立つものとの相談。ある程度の運営的な見通しも考えねばならず、先送りになります。

みなさまのおかげで7周年 89年7月号

 82年6月にオープンしてより7年の歳月が流れました。当初は、「3年持てばよい」と言われていたこともあり、また、私自身、今日まで生き残れようとは思ってもいなかった(?)のですから、これも一重にみなさまのおかげと感謝しております。
 7年といいましても、短いようでもあり、また長くもあり、取り巻く環境は大きく変化してきております。1つには、映画状況の変化であり、もう1つは、消費税という名の悪税の施行にあります。
 80年代始めは、マイナー系配給会社や供給作品が増え出した頃でもあり、現在のように大手配給会社が旧作のリバイバル配給に手を染めることも少なかった時代であり、、所謂ミニ・シアター(好きな言葉ではありません)が僅かに存在し、自主上映や名画座が辛うじて生きられる時代でありました。しかし、いまやメジャーがマイナーな作品を手掛け、商社やヴィデオ業界が世界各国で目方(グロス)買いを行い、世界中の作品がそのレベルを問わず紹介されるようになっています。当然、それらの作品を掛ける小屋が雨後の筍のように出現し、ミニ・シアター・ブームとの名の下でファッション化し、活況を呈しているかに見えますが、決して、映画が復権したわけではありません。それは、2番館や名画座が消えてしまっている現状からも、また、年間の入場者数の低落傾向からも明らかなことでしょう。増えすぎたミニ・シアターも一館での動員数が減少し、閉館するところもでそうな雲行きとなっており、消費税の施行と相俟って当館の存在を脅かす現象ともなっています。今年も気を引き締めて、《自分達の見たい映画》を上映し続けていきたいと思っています。
 なお、7周年記念番組などは積極的には行いませんが、講演集の発行(ブックレット形式)を企画しております。後日、当通信紙上でその概略などを発表致します。その節にはご協力の程を!
 最後に、7月16日から公開します「エロイカ」についてですが、これは、反商業・非興行を主旨に、各地で自主上映に取り組んでいるグループの集まり(13都市)であるシネマテーク・ジャポネーズ(CJ)の自主輸入・自主配給第8弾の作品であります。78年の「すべて売り物」に始まったこの共闘戦線も、次回からは新たな展開を行うことを考えております。
 

設立6年 お休みのようです

 
5周年を迎えるに当たって 
87年7月号

 おかげさまで、シネマテークも、5周年を迎えることができました。これも、皆様のお陰と感謝しております。
 さて、設立当時より、この5年間で映画環境は大きく変化しております。
  1.リバイバル作品が一般の映画館でも掛かるようになった事
  2.マイナーな配給会社の作品と普通の配給会社のそれとの差異が無くなった事
  3.小粒な作品(一般の映画館では掛からないような作品)が増加してきた事
  4.観客の記録映画への関心がさらに希薄になってきた事
  5.観客の嗜好がさらに多様化してきた事
などが挙げられます。
 このことから、名古屋シネマテークは、当初の方針であった<旧作上映><新作上映><記録映画上映>のバランスのとれた上映展開が難しくなり、新作上映の比重が偏ってしまい、更に又、当初はスタッフの見たい作品も数多く企画上映していたのが、赤字の増加(84年頃)と相俟って、その頻度が少なくなってしまった。
 今では、若干の余裕(累積では赤字)はできているが、輸入作品の増加で旧作を掛けるスペースが無くなっている。そして、新作上映の合間をぬって、見たい作品を企画しているのが現状である。
 私は其のことに不満はない。100%満足してはいないが、厳しい状況の中で輸入作業・製作作業を行っている人たちへの断固たる支持の為に今後もこの方針を貫きたい。
 さて、本来ならば、何らかの5周年記念行事を行うのであろうが、諸般の事情で今年は取り止め、来年の<6周年記念>を目指して、今から企画を練って行きたい。シネマテークがやるのであるから、決して派手なものにはならないが、現在考えている案は、
  @講演集(これまでに名古屋シネマテークで講演された監督たちの)
  Aシネマテーク通信 増刊号(3周年記念号と類似のもの)
  B作品輸入
  C蔵書目録(単行本1000冊、雑誌3000冊の整理)
  Dテーク2の開設(30人規模の上映室)
  Eテーク本体の改装
などなど。
 今後とも宜しくお引き立てのほどをお願い致します。
 

無題 86年10月号

 名古屋シネマテークができて、この6月でまる4年が経った。
 この間、映画鑑賞環境は大きく変化した。名古屋シネマテークの上映作品傾向も大きく変化した。それに伴って一部の支持者からのブーイングの声も聞こえるようになった。
 それは、新作上映が中心で、普通の映画館と変わらない、記録映画や旧作の企画上映はどうした、入りそうな作品しかやっていないのではないか、との声である。

 今回の当欄はこの声に応えるため、映画鑑賞環境の変化について若干の説明を加えたい。
  @洋画の旧作が、ビデオ販売の宣伝のために商業映画館でも頻繁に見られるよ
   うになったこと。
  A商業配給会社が、大作映画一辺倒からミディアムな新作を数多く輸入するよう
   になったこと。
  B個人的配給会社が増え、ミディアムな新作からマイナーな新作まで幅広く数多
   く手がけるようになったこと。
などである。

 このことは、シネマテークは次のような現象をひき起こした。
  @洋画旧作を自主上映する必要がなくなった。裏返せば、自主上映の得意技であ
   った洋画旧作では、観客を動員出来なくなった。
  Aメジャーのマイナー化によって、商業映画館では採算割れの作品が増えてきた。
   その為、それらの上映をシネマテークで希望する声が強まってきた。
  B個人的配給会社の作品の中に観客動員が見込める作品が増加し、その作品の
   上映日数が長くなってきた。逆に積み残しの作品も増えてきた。
 さらに、
  C邦画旧作は、以前よりも観客動員数が弱まり、時おり実験的に企画しているもの
   も、収支から遠く離れている。さらに9月から邦画数社の倉庫が縮小され、作品の
   絶対数が不足し、企画づらくなろうとしている。
  D右傾化の風潮の中で、政治性を帯びた記録映画や劇映画の新作が少なくなり、
   動員数も低下してきている。(「山谷」「解放の日まで」は例外的成功。来年の小
   川プロ、青林舎の新作に期待)
 このような状況下で、設立の目的である“見たい映画を上映して見る”という主旨は、シネマテークの存続の前には一部棚上げせざるを得ない。それでも少なくとも50%の満足度を得ることは必要であり、その為に努力せねばならないと思っている。

 

3周年を迎えて 85年7月号

 今年6月で、3歳の誕生日を迎えることが出来ましたのは、みなさま方のおかげと感謝しております。
 当初は、半年か1年もてばよい、との意見もあり、特に2年目の9月〜11月は危機的状態に陥りましたが、辛うじて生き残ることが出来ましたことは、カンパニングに応えてくれた人々等、数多くの方の力添えがあったからこそです。
 現在、3周年記念番組を実行中ではありますが、このような初公開物が、立て続けに呈示出来るのは、3周年だからではなく、3年前の設立主旨書にも書きましたように、マイナーな形での輸入が、予想以上のスピードで増加している結果による為です。
 今後も、このようなマイナーな作品が増え続けることが予想され、かつ、それを受け入れることが、当面の名古屋シネマテークの義務(役割)であると考え、積極的に取り組んでいくつもりであります。
 逆に、名作等の旧作の上映が、お留守になることもありますが、諸々の情況の中で、名古屋シネマテークが生き残れる可能性が大きいのは、これらマイナーな新作の公開以外考えられず、旧作ファンには申し訳ありませんが、しばらくのご辛抱の程をお願い申し上げます。(但し、来年には、別の方法を考えておりますが。)
 当然、旧作については、Late Show 形式による上映が前年度に倍加して行っていくことになりますが、時間等の都合で参加しにくい方にはお許しをいただきたいと、存じます。
 名古屋シネマテークのような規模と方針の下では、大宣伝によって参加数を増やしていくことは不可能であり、かつ、似合わないと思っております。スタッフ一同も、旧来に増して積極的な情宣活動を展開する所存でありますが、みなさま方のくちコミ(人の口から朽ちへ個別的に伝えられるコミュニケーション)によるものだと考えています。
 つきましては、チラシ、チケット、ポスター等を置かしていただける方、預かっていただける方が、おられましたらお申し出下さい。
 一年でも長く、この名古屋シネマテークが続けられるよう、みなさまのご協力を切にお願い申し上げます。