『シネアスト通信』とは、名古屋シネマテークの前身であるナゴヤシネアストの情宣紙として、73年〜82年までの間、合計 回、1.5ヶ月〜2ヶ月に1回の割合で発行していたものです。A6・4ページ〜12ページ立ての構成です。
その中にも、一応、私の発信した文章が載っております。その一部を掲載する次第です。ただ、参考資料がないと、文脈が見えてこないものもありますが、それらについては、追々、完備していきたいと思っています。
    ※印は一応校正済みです

 

7−年−−月−−日発行(通巻1号) ★ B5版・−p

7−年−−月−−日発行(通巻2号) ★ B5版・−p

7−年−−月−−日発行(通巻3号) ★ B5版・−p

7−年−−月−−日発行(通巻4号) ★ B5版・−p

7−年−−月−−日発行(通巻5号) ★ B5版・−p

7−年−−月−−日発行(通巻6号) ★ B5版・−p

7−年−−月−−日発行(通巻7号) ★ B5版・−p

78年−−月−−日発行(通巻8号) ★ B5版・−p

 

78年12月23日発行(通巻9号) ★ A5版・8p

●当会が現在使用している会場は、“監督シリーズ”のレンターシアター50、“名画選シリーズ”の今池ジャンジャン、“フランス映画研究”の中小企業センター階段教室、“シネ・フェスティバル”の旗屋シネマ、及び、“特別上映”の中小企業センター講堂であるが、この1月15日に今池ジャンジャンが閉館になること、及び、中小企業センターの階段教室から、講演をともなわない有料上映会(会員制であっても)の使用禁止の通達を受けたことにより、一挙に、2つの会場を失うことになった。為に、活動のペースが若干弱まることになるが、“フランス映画研究”については、現在、上映方法や会場について考慮(交渉)中であり、4月から再開出来る見通しである。又、“名画選シリーズ”については、当面、その予定のほとんどを手直しして、レンターシアター50を使用するなどして、乗り切るつもりである。
●中小企の階段教室使用禁止の件については、もともと、英語字幕ということにより、目をつむってもらうことで“OK”を得ていたものであり、会場難からくる他の上映(製作)グループ(複数)が、階段教室の使用を、当会に使わせているとの理由で、強要したことからくる処置である。思えば、5年前、フィルムライブラリー協議会より研究目的ということで“カビリアの夜”“情事”“揺れる大地”“ゼロ地帯”“黄金時代”などの使用を許可されていたが、これも、他都市から半営利団体と思しきグループからの使用を強要された為、その後のフィルムの使用を禁止されたこともあり、又、6年前には、今回と同じ理由から中区役所ホールの有料上映会使用を禁止されたこともある。
●決して、既得権などというつもりはないが、他のグループの活動に支障をきたすような言動をもって、ごり押し的に会場などを使用しようとする行為だけは避けていただきたい。その最大原因が、会場難にあるとしても。
●“映画芸術”12月号に於いて“ハード・スタッフ”の小西昌幸委員長より指弾された「確固たる姿勢を持たぬ」ナゴヤシネアストの「ひねくれ」て「屈折した」表現しか知らない私も、風化し、錆びついてしまった我等の最後の年79年を迎えようとしている。
 70年安保を傍観者としてしか臨まなかった私は、既に、その時点で終わっていたのかも知れない。縦しんば、この70年代を自分なりに努力してきたとしても、小西氏の言う「確固たる」思想など作り得ないのは当然である。
 そのような私ですら、決して小西氏が指摘するような事象からのみ板坂氏の政治姿勢に疑問詞を挿むような単純な精神構造を持ち合わせていない。彼のその他の仕事をも考慮に入れた上での事であり、彼のボルテージの高さの必要性は認めるとしても、やはり、彼を全面的支持する危険性は回避するべきである。

79年2月2日発行(通巻10号) ★ A5版・8p

何んとなく、ただ何んとなく
★新年早々、どうもよくない。1月の上映作品『ヒロシマ・わが愛』が上映不可能になるし、3日早朝には、突然の腹痛に見舞われ、敢えなくダウン。年なんだなあ。しかし、我等の最後の年−79年は全力疾走で、駆け抜けねば。早朝マラソンで体力をきたえよう。
★ところで次のような手紙が徳島の小西君から届いた。以下全文。
「前略。(この文を、自由空間かラストページに掲載いただければ幸いです)『映芸』1月号、先駆文学会広告内に於いて小西レポートなる一文が掲載されましたが、その件についてみっともない弁解をいたしたくペンをとった次第です。あの文は元来活字化する予定のものではなく(中上健次の村上への発言のみ掲載されると思っていた。)そのため一部表現のニュアンスが誤解をまねき、シネアストに対してご迷惑をおかけする結果となりました。板坂剛氏への私信のため、氏に対し若干気を使ったため微妙ないいまわしとなった訳ですが、今にして思えば活字となるのであれば文体への配慮やシネアストの宣伝もやるべきであった・・・・・・と軽率さを反省した次第です。小生など、まだまだケツ青きヒヨ・・子。名古屋に居た頃並々ならぬお世話になり、多くの事をご教示いただいたシネアストの倉本徹氏(本山の首領)には、常々その「志」・「迫力」・「行動力」・「鋭い見識」等を見習い、畏敬しているのです。今後もよろしくご指導御鞭撻のほどを。敬具
 「ハードスタッフ」編集発行人・小西昌幸(在・徳島)」1978.12.15

79年3月17日発行(通巻11号) ★ A5版・12p

79年4月27日発行(通巻12号) ★ A5版・12p