━名古屋シネマテーク3周年を迎えるにあたって━
倉本徹

シネマテーク通信増刊号bR 85.5.28

◎はじめに

 35_映写機を常備した全国でも初めての興行場としての許可を得た自主上映館・名古屋シネマテークがオープンして、今月でまる3年がたつ。
 
全国で初めてとは言っても、16_のみのは前例(東京でACT)があり、興行サイドの人間が作った前例(札幌のジャブ70)もあり、映画以外を目的とした前例(名古屋の名演会館)もある。ただし、自主上映グループが、多人数から資金を集めて興行場として設立したのは、全国でも初めてであった。
その後、82年夏に東京のユーロスペースが出来、83年山形の共同映画系列のグループが作ったとの噂を聞き、84年埼玉の新座で自主上映グループが作ったものがあるが、それ以外には聞いていない。
 
 100人を越える設立資金提供者(=出資者、5万円〜50万円)によって設立されたこのスペースも、御多分にもれず、出足は順風満帆というわけではなかった。
 
設立資金提供者の推移
 82年度      81名              1030万円
 83年度       8名(追加4名)        123万円
 84年度       1名(追加4名)         50万円
カンパ等の提供者の推移
 82年度                       372,700円

 83年度                       931,570円
 84年度                       151,000円
その他、広告掲載等によるものもある。
 

◎82年、83年の頃

 最初の2年間は、既存の配給会社も、<ハイ、そうですか>と言って、快くフィルムを貸してくれるところが少なかった。また、マイナーな作品を貸してくれるところが少なかった。また、マイナー−な作品も、それほど多くはなく、企画面での長期展望が見い出せない状態であった。
 
この文中では、既存の配給会社のことを《メジャー》と呼称し、《マイナー》というのは、利益追求を第一義とはせず、映画を表現手段と考え、個人的・恣意的に輸入する個人・小規模会社をさす。
興行再度では、《メジャー》
というのは国際資本の輸入会社をさし、これに対する民族資本は《インディペンデント》という。
 
 だが、このような模索状態の下においては、反面、活動に参加している参加スタッフの趣向にそった企画をかなり自由さをもって行うことが出来るものである。余談ではあるが、倒産寸前の映画会社に言えることである。
 その結果は、310万円にものぼる赤字を、この期間に作ってしまうこととなった。
 
 82年度      動員数         13,846人
            収 支      1,773,510円の赤字
 83年度      動員数         19,166人
            収 支      1,389161円の赤字
 84年度      動員数         28,001人
            収 支      1,728,556円の黒字
 3年間とも、減価償却を含んだ額ではない。特に5年〜7年サイクルで考えておかねばならない改装経費の積立てを行うとすると各年度ともさらに100万円の赤字が加算されよう。
 
 この赤字は、カンパを要請する形で、辛うじて埋め合わせることが出来た。
 
 83年夏から11月にかけては危機的状態が続き、「ニッポン国・古屋敷村」で借りたフィルム代前払い金の支払いを遅らせることと、欧日協会関係の支払いを待ってもらうことなどで辛うじて生き残った。欧日協会への支払いは、翌年11月の「「アントニー・ガウディー」の結果によって完了する状態であった。
 
 しかし、3年目からは、何時までも甘えているわけにもいかず、自立することが必要となってくる。それは、誰もが名古屋において、その種のスペースが自立することの難しさをわかってはいても、三度が三度までも安易にカンパを要請されることには、やはり抵抗感があるだろと思われるからである。
 この頃から、徐々にではあるが、マイナーな作品も増えてきており、かつ、既存の配給会社も、ほぼ貸してくれるようになっていた。後者は、家主である川瀬さんの力添えが大きかった。
 
 川瀬さんは、四日市中央、桑名映劇、南陽劇場、オーモン劇場などのオーナーである。因みに、シネマテークのある今池スタービルは、もと今池スター劇場という映画館のあと地である。
 

◎シネマテークの方向性

 経済的に自立していくためには、まず企画面におけるイメージ作りを試みることにした。その為には、企画の統合性、即ち、上映作品の大まかな方向性を明確にしなければならない、と考えをもつようになった。
 その方向性とは、
  @メジャーに対するマイナーな恣意的輸入業者及び製作者の新作を上映すること。
  Aメジャーであっても、名古屋では上映されないであろう“地味で良質”の未公開作品を上映す    ること。
  Bある種の運動性を持った作品(群)を外部の諸団体と協力して上映すること。
  Cドイツ映画大回顧展のような研究会的なものを企画上映すること。
を、積極的、かつ、優先的に取り上げ、
  Dいわゆる“名作”を上映すること。
  E資本の論理からはじき出された作家性、主義主張が強く表出された作品を上映すること。
  F以上の範疇に入らないものもあるが、スタッフの個性を生かした企画を行うこと。
を補完的なものにする、ということであった。
 この方向性は、メジャーのマイナー接近、即ち、これまでの彼らが切り捨ててきたアート系の新作や、名作の積極的再公開によって、さらに16_等の上映可能作品の枯渇(繰り返し上映すれば可能だが)によって、作品面での希少価値を映画ファンに提示することが難しくなりつつある状況を、敏感に反映するものであった。
 
 シネアスト時代の上映作品数 563作品
          再上映作品数  90作品
 シネマテークでの上映作品数 601作品
          再上映作品数  32作品
   (長編のみ)
 

◎84年の名古屋シネマテーク

 84年度(4月〜3月)は、この方向性の元に、進めていくことにした。それと並行する形で、夜1回上映のレイト・ショーという形式を編み出して、スタッフの趣向を生かすとともに、増大しつつあるマイナーな作品へと対応していった。
 そして、マイナーな作品の中で、「アントニー・ガウディー」というお化け的な動員数を記録することになった作品にも出会い、単年度では赤字をクリアーすることが出来たのである。ただ、このような作品が自主上映で行われるのは、10年に一度あるかどうかと思われる。

 また、この年は、「ドイツ映画大回顧展」という遠大(?)な企画をも実行する。21テーマ、148作品を上映したこの企画は、名古屋シネマテークの存在なくして名古屋では不可能であったと思われるが、それほど多くの参加者は得られなかった。ここに、名古屋の映画ファンの体質の限界、層の薄さを再確認することにもなった。
 
 「アントニー・ガウディー」データ
  上映日数     15日+2日(中小企)
  上映回数    103回+10回

  参加者数 4,270人+943人
  純   益 1,881,130円の黒字
  他にパンフレット等の収益も大きい。

 「ドイツ映画大回顧展」データ
  上映作品数 長篇     131作品
          中・短篇    12作品
  番 組 数          133番組
  上映日数            94日
  上映回数           509回
  参加者数          6970人
  収   支        1,128,110円の赤字
 
 さて、この一年間は、前述の方向性の下に行ってきたが、内部にはかなりの抵抗感があり、現在に至っても解決はしていない。それは<スタッフの見たい映画を自由に上映出来るのがシネマテークの本質である>との認識が、若いスタッフの中には強くあるからである。
 だが、この認識のみで運営することは、個人レベルの自主上映ならともかく、3000万円を越える年間予算規模の名古屋シネマテークにおいては、自らの崩壊につながる危険性を有するのではないかとの疑問をもたざるを得ない。
 
 フィルム代、専用チラシ、チケット印刷代を除いて、一週間で30万円の経費がかかっており、一週間の採算ラインの動員数は、500人前後である。
 

◎自主上映の歴史

 ここで、自主上映という実に曖昧模糊としたものの戦後の歴史について、若干ふれてみよう。
 自主上映というのは、利益追求を第一義とせず、貸しホール等で、自分たちの見たい作品を上映しようとする活動をさす。当然の確認事項として、これには社会意識が強烈にともなっていなければならないことは言うまでもない。
 故に、名古屋シネマテークの場合、専用ホールを作り上げてしまっているので、この範疇からははずれてしまっているが、その目的や姿勢が自主上映そのものであるため、ミニ・シアターとは呼ばず、自主上映館と、我々は呼んでいる。
 
ミニ・シアターというのは座席数の少ない小映画館の事で、300人以下の規模のものを言う。巨額の宣伝費や間接経費をかけることなく、個性的な映画を上映し、収入をあげることを目的としている。
ただ、西武や東急のように、本業である流通産業のイメージ・アップの為に宣伝費と考えられている場合もある。
 
 自主上映と一概に言っても、時代の流れの中で、また、商業映画館の上映傾向の中で、その形態や上映作品に大きな変化がみられる。
 65年以前、映画が“娯楽の王様”であった頃は、党派に指導されたプロパガンダを目的として上映されることが主であった。(例:戦艦ポチョムキン)
 65年以降は、70年安保闘争の影響からか、シネクラブ運動と呼ばれるような、過激で、理論斗争の実践の為の上映運動が行われた。杉並シネクラブ、静岡シネクラブ、京都シ・ド・フがその代表であった。
 70年、大映の崩壊にみられるように、映画に産業としての活力が失われつつある頃になると、一個人又は小グループが、それぞれの趣向の下で、映画館では無視されるようになった“名作”を上映するようになった。一方、時代を映した記録映画も、闘争の余燼の中で、いまだに頻繁に上映されてもいた。
 しかし、75年を過ぎる頃になって、アート系作品を直輸入しようとする機運が、自主上映グループの中に生まれて来る。シネマテーク・ジャポネ−ズなどである。これはATGの路線変更(輸入の中止)に見られるように、ハイ・ブロウな作品が一部の映画ファンにしか受けないとの理由で、メジャーにおいて切り捨てられてきた結果によるものであった。
シネマテーク・ジャポネ−ズ(略称CJ)とは、全国10余都市にある自主上映グループの横の連合体である。一都市一グループを原則とし、非商業主義、反興行を旗じるしに、75年に設立された。78年の「すべて売り物」以降、85年の「バリエラ」まで、計6作品を自主輸入している。
 

◎現在の自主上映

 80年に入ると、大宣伝に踊らされなくなった観客と、観客のニーズの多様化に対処するため、既存の配給会社も、アート系作品に目を向けるようなった。これは、岩波ホールの成功、自主上映、自主輸入のそれなりの活躍を掠めとる結果になった。さらに、評価が確定しているが故に、宣伝の必要性も少ない名作のリバイバル公開を、ビデオの販売権とクロスした形で、積極的に行うようにもなる。東京では、一昨年からミニ・シアターの会館が顕著になって現れているが、これらの状況に対応したものであると、思われる。
 
映画の輸入契約には、次の種別で選択契約がなされる。付随契約分は通常安くなる。
 35_の上映権
 16_の上映権
 テレビの放映権
 ビデオ・ディスクの販売権
最近の“名作”の著しい再公開は、ビデオの販売権を買ったついでのものであり、35_等の上映権は、付随契約であろうと思われる。35_の劇場公開は、ある意味の“おまけ”である。
又、CJが自主輸入する場合、ノン・シアトリカル契約(非劇場用契約)で行うことが多く、シアトリカル契約より格安な場合がある。これらの契約金のことを、ロイヤリティーと言う。
 
 今や、自主上映と、アート系ミニ・シアターとは、作品面での差異はほとんどなくなりつつある。この現象を、先にのべた<メジャーのマイナー接近>と、我々は言っている。
 従って、宣伝媒体の主力を、マスコミの無料記事、タウン情報誌、くちコミ(うわさ、評判など、人の口から口へ個別的に伝えられるコミュニケーション)などにたより、短期ホール上映など劣悪な条件で上映せざるを得ない自主上映は、商業映画館ミニ・シアターとの競合の中で、そのゲリラ特性を発揮出来ず、苦戦を強いられている。
 今後、大都市(政令都市など)における自主上映は、名作上映よりも、マイナーな作品の初公開上映が、その主流になるものと思われる。その為、良しにつけ、悪しきにつけ、これまでの自己陶酔(マスターベーション)的発想を切り換え、人海作戦による情報宣伝(=情宣)面での厳密さと行動半径の拡大、企画作品面での強力化が必要となってくるであろう。
 
10万以上の都市、特に県庁所在地に必ず一ツか二ツの自主上映グループが存在しているが、その多くは、メジャーのアート系作品の上映が主力である。これは映画館の数から言ってそれらの作品がその地区で上映されていない現実と、マイナー系の作品が、大都市においても収支をあわせるのが難しい現状からみて、やむを得ないことであろう。
 
 以上が、戦後から現在に至る大都市における自主上映の変遷であるが、名古屋シネマテークも、この歴史と現実の中に存在している。
 今年は旧来にも増して、マイナーな作品が、加速度的に増加する気配にある。その一ツの理由としては、“シネクラブ加盟”なるものの設立が、東京で計画されていることにもよる。
 

◎シネクラブ連盟(仮称)の設立計画

 “シネクラブ連盟”とは、個人あるいは団体が、見たい映画、紹介したい映画を輸入しようとした時、海外の製作者と直接交渉する手続きを代行しようとするものである。もし、シネマテークが、ある作品を輸入したい、そのための費用を準備する、と連絡すると、フィルムの契約交渉から字幕打ち込みまでの全ての作業が、ここを通して行う事が可能となる。それにかかる費用は200万から300万円(ロイヤリティーの額にもよるが)ぐらいのものである。
 また、作品の質や内容により、ユーロスペースとかアテネフランセ文化センター等での上映も可能であり、これまで高嶺の花であった自主輸入の道が、地方の自主上映グループにとっても開かれよう。
 この“シネクラブ連盟”の設立によって、恣意的な輸入作品がさらに飛躍的に増加することになり、まさしく映画は、一部のプロフェッショナルの手から解放されることが可能となるのである。
 

◎今年の名古屋シネマテーク

 だが、これらの作品の輸入行為者は、地方の流通(配給)ルートを持たず、個人的なコネクション(信頼性)の下に地方上映を行っているが、完全なるものには当然なっていない。東京のみの上映では、その収支は考え難く、地方上映によるフィルム代の還元によって、初めて収支のバランスが見込めるものである。見込めない現実の中では、次なる作品の輸入も覚束無く、縮小を余儀なくなれるであろう。
 この事態を避ける為、少なくとも、政令都市規模の都市で自主上映を続けているグループは、積極的に彼らに加担し、彼等とともに日本の映画状況に対して共闘していくだけの心構えを持たなければ、その存在理由もないものと思われる。
 名古屋シネマテークと類似したスペースを持たないグループにとっては、時間的、金銭面において厳しいかも知れない。が、少しでも多くのマイナーな作品を受け折れる努力を払っていかねば、我々の目差す映画状況、即ち、あらゆる国のあらゆる映画を、自由に何時でも見られる状況を作り上げることは不可能であろうと、私は考えている。
 以上の考えに立脚して、名古屋シネマテークは今年も昨年同様、マイナーな新作の公開に、果敢に取り組んでいきたい。
 この方針に対して、単なる請負にすぎないとの意見もある。しかし、個性的で恣意的な輸入行為者が、独自のポリシーを持って取り組んでいることが多いため、彼等の作品が我々の期待を裏切ることは少なく、信頼の下で、私は彼等に応えていきたい。
 

◎私の夢

 最後に、私の“近未来の夢”を語ってみたい。
 これまでのべてきた映画状況(マイナーな作品の増加)とシネマテークの方針(マイナーな作品をフォローしていくこと)、及び、シネマテークの採算ベースを考慮した場合、300人規模の企画や、スタッフの趣向にそった企画等が、どうしても設定し難くなる。
 その為、隣室をさらに借用して、シネマテーク2(仮称)なるものを作ろうと思っている。これは現在のシネマテークの面積で5分の2、収容人員で2分の1の大きさのものである。16_映写機、8_映写機を設置して、フロア形式にするが、上映の際には段床にも出来る構造にする。
 使用目的は、
 @シネマテークとの関連企画
 A極小規模のロードショー、企画上映会
   (シネマテークの一週間の採算ベースは550人)
 Bビデオ、ディスクの定期上映会
   (機材一式で50万〜100万円必要か)
 C映画講座
 D小規模な会議、集会、展示会
 Eその他
といったところを考えている。
 これによる効果は、種々な作品(フランス映画、ドイツ映画、日本映画、実験映画、記録映画など)の紹介がさらに可能となり、シネマテークの魅力(?)を倍加させられることにある。即ち、名実ともに名古屋におけるマイナー系映画の“殿堂”といった趣きが、醸し出されることになるだろう。
 因みに、これに要する改装費用は150万から300万を予定している。
 また、“シネクラブ連盟”に参加して、自主輸入も行ってみたい。その際には、翻訳、字幕作業はシネマテークで行なう。輸入作品の選定には迷うことになると思われるが、著名な監督の重要な作品であるにもかかわらず、未公開になっているものか、あるいは、知られていない監督であっても時代を強烈に映し撮った新作になるものと思われる。
 今年か来年には、少なくとも一作品は自主輸入を実現したい。
 さらに、映画評論誌の発行、単行本の出版もやってみたい。出来れば映画製作も・・・・。
 

◎終わりに

 だが、いずれにしても金銭が絡む話であり、おいそれとは実現出来ないであろう。しかし、夢を新たに創造し、一ツ一ツ現実のものにする努力をしなければ、我々の望む状況は、決して向こうから近ずいてきてはくれないのである。                           (1985年5月23日)