『ある女の生涯』まえがき
発行:ユニテ
82年10月1日発行


 深尾道典との出会いは、大島渚の「絞死刑」(1968年製作)を見たときに始まる。58年8月の小松川事件に材をとったこの作品は、深尾の単独シナリオ第1稿「いつでもないいつか、どこでもないどかかで」(63年9月脱稿)をベースに深尾と田村孟、佐々木守、大島渚の共同脚本により大島演出で映画化されたものである。
 映画はディスカッション形式で進行し、きわめて論理的に構成させ、犯罪、国家、民族についての我々の既成概念をひとつひとつくつがえしていく。これに対し、「いつでもないいつか、どこでもないどこかで」は、「一人の人間の内部で何がおこっているのかを描くことを通して、状況の最深部で何が起っているのかを描くことを通して、状況の最深部で何が起っているのかを明らかにしよう」(深尾)としているように、犯行為者・李少年の抑圧された内面が、想像と現実を交錯させることによってするどく表現されている。その意味で「いつでも・・・」は大島のデビュー作「愛と希望の街」を彷彿させる。
 思えば、出来上がった作品「「絞死刑」と第一稿シナリオ「いつでもないいつか、どこでもないどこかで」の質的乖離は、後年の大島と深尾による「愛のコリーダ」原作問題、及び二人の資質の違いを、はからずも内在していたと言ってもよい。それは大島と深尾の表現対象への責任のとり方の差であり、表現対象への愛惜度の差である。大島は人間の内面を把えるのをやめ、表面上の行為、言葉による虚仮威(こけおど)しに終始したのに対し、深尾は人間の内面を描くことを中心眼目にすえ、登場人物(主人公、表現対象)の心底にまで入り込もうとしていたのである。言い換えれば、政治家と詩人との発想の相違がそこに見られたのである。
 76年4月号の「映画芸術」で深尾の「大島渚との訣別」を読み、同誌の大島の「深尾道典氏への手紙」を比較したとき、その体質の差異がより明らかになってくる。すでに大島はそれまでの協力者、石堂淑朗と田村孟とを失っているが、石堂は72年8月号・9月号の「オール読物」において、小説「わが敵大島渚」を発表しており、大島の体質を考える上に大いに参考となろう。
 さらに「愛の亡霊」の新聞インタビューで、大島は「ATG時代は金の制約があり、理屈っぽい変化球で勝負して疲れました。僕は本は来剛速球型でね。今は本来のペースで仕事しています」(毎日新聞、77年11月22日付)と言っている。明らかにそれまで献身的に大島の創作に携わってきたスタッフに対する責任回避であり、裏切りである。大島の体質が己が口から吐露した象徴的な記事であった。
 観客にとっては確かに出来上がった作品が、全ての評価の対象となるだろう。が、80年に映画監督協会会長に就任し、76年4月号の「映画芸術」に深尾の大島批判とそれに対する大島の反論を同時掲載することによって、深尾の批判を弱めるという愚をさらけださざるを得なかった編集長・小川徹の例でも判るように、その隠然たる支配力を映画界にもつ大島と、関西を中心とした少数ではあるが熱烈たる支持者しかもたぬ深尾とでは、その喧嘩の土俵は公平さに欠けると言っても過言ではない。
 事実、大島は「愛のコリーダ」をものにし、かつシナリオも公表出版している。それに反して、原作である「ある女の生涯」は陽の目をみることがなく、7年の歳月が流れている。我々はここに正当な土俵を深尾に提供すべく、このシナリオ集を世に送る。そして、その評価は読者たるあなたに委ねるものである。
 なお、この『ある女の生涯』は、ユニテ(=名古屋ウニタ書店)と名古屋シネマテーク(=旧・ナゴヤシネアスト)の共同出版という形態をとっている。しかし実際は名古屋シネマテーク側は7人の有志(大橋正信、小西昌幸、後藤幸一、幡野一人、山田鉄夫、山田寿男、倉本徹)による個人参加である。一人でも多くの方に読まれんことを!
 1982年7月17日
                                               倉本徹