シネマテーク・ジャポネーズ メッセージコーナー
 



 80年9月10日発行

 活動(所謂、自主上映)の目的について、時々聞かれることがあり、即答に窮することが多々ある。
 商売だ、と言ってしまえば至極簡単ではあるが、これをめしの種にしているわけではなく、どちらかと言えば、持ち出しの為の副業があるのが現状なのだから、商売というのは当たらない。
 逆に、道楽だ、趣味だ、という手もあるようだが、道楽が出来る様な経済的余裕(ゆとり)はないし、趣味にしては小遣い銭をはるかに越えているのだから、一般常識から考えて納得がいかないだろう。(持ち出しがある限り、我々の活動は不健全であるのは言をまたない)
 では、何が目的なのだろうか。一時、次のようなことを言ってきたことがある。
 自分(達)で見たい映画を、映画館や地方公共団体(又は国)の文化政策に求められない以上、自分達の手で上映の場を設定し、見るのだ。自分だけで満足するならば、東京へ行って見てくるのが一番の安上がりだと思うのだが、200万都市・名古屋で、それしか方策がないのは異様ではないか。私以外にも、きっと同好の者が居るはずだから、上映すればそれ相応の回収は可能なはずだ、と。(活動の原点は、ほとんどこういうところであろうが、これは地域相対論、乃至は補完作業論によるものであり、活動の発展過程で乗り越えなければならない)
 だが、現実には回収はおろか、東京へ行く費用以上の負担となっており、故に、これも継続的活動の主たる理由にはなりそうにもない。
 次にくる理由は、お祭り騒ぎが好きで、みんなで集まって何かをやってみたいというので、(自主)上映を選んだ場合である。これは時たまならば理由にもなろうが、我々のように日常化してくると、説明としては弱い。
 これと重複する面もあるが、行動それ自体が自分にとって、ある種の不満(対象は不明確)解消策になっているのではないか、と思われることである。この欲求を満たす方法として、映画の上映を選んだのではないか、と。さらに、自己顕示等の為にポーズとしての自主上映ではないか、とも思われないこともないが、これ等の理由ではあまりにも寂し過ぎて、自分では認め難い。
 映画がよほど好きなのですね。だからやっていれるのでしょう、と言われることがある。映画が嫌いではないことは確かなようだが、上映することによって、逆に見る時間が失われ、自分達で上映するものですら、落ちついて見ることが出来ないことを考え合わせれば、所謂“見れば幸せ”といった類の映画馬鹿では決してない。第一、このような映画好きは、一種の趣味人であり、能動的になれるような人種ではないからでもある。
 これと似た理由で、いや多少は高尚な理由として研究目的の為です、と言えないこともないではないが、これとて全ての上映には当てはまらない。(今後は、この目的による研究会的上映会が多くなるではあろうが、それによって機動性が失われることも考慮せねばならない)
 それでは(政治)運動の一環としてあるのか、と言えば、これも違う。高々自主上映ぐらいのことで運動の代替となる程、運動は甘くはない。根底には、70年へのこだわりが大きく影響しているとしても、それが全てではない。
 では、一体全体、何が現在の活動を持続させているのであろうか。年に一度か二度、自分の感性を強烈に揺さぶる作品に出会すことがある。この時、自主上映の疲れが一度に吹き飛んでしまう。その震度、その衝撃波を求めて、否、その為にのみ自主上映と取り組んでいるのだ、と言えないこともないが、出会す確率は極めて低く、そこに至る消費エネルギーはあまりにも高く、故にこの理由だけでは、道楽の範疇を越えられない。
 あれでもない、これでもない、と消去法によって活動理由(目的)を探し出しては消していくと、理由が見あたらなくなる。それでは目的もなく馬車馬のようにやっているのか、と言われれば、言下に“ノン”と答える。馬鹿にするなよ、目的もなく何年もやっているものか、と。
 実際には、様々な理由が重層的に関わりあって活動の源を構成しているのであろうが、その中でも特に、ある種の映画との出会いと、ある種のこだわりとが大きく作用しているようである。しかし、的確な解答を呈示出来ない以上、そう言われてもやむを得ないと、諦観したりする。
 このような訳で、今までは活動目的を明示することなく(出来ずに、あるいは避けて、いや若干は言及しつつ)上映し続けてきたのだが、来春、活動開始10年を向かえるに当たり、一ツの節目として活動目的の明確化、行動理念の確立の必要性が出てきたようだ。そして、10年の活動に見合った仕事としての上映形態の模索があり、複数制の有効なる活用方法の試行がある。そこには“個”として活躍出来る“場”を作ることが前提となろう。
 1981年。それは我々が考える(文化)情況に関しては希望なき年代の幕開きではあるが、ナゴヤシネアストにとっては大地に根付く活動の出発の時期でもある。
 シネマテーク・ジャポネーズの発展と共に、否、シネマテーク・ジャポネーズとの運命共同体にあるナゴヤシネアストの活動に注目されたい。          (1980年7月16日)
  
 当『一万の太陽』は、CJシネマテーク・ジャポネーズによって公開され、パンフレット制作を名古屋が負うことになった。その巻頭に、以下の3人がCJの紹介に当たった。
   シネマテーク・ジャポネーズについて 南光
   シネマテーク・ジャポネーズの展望  本庄晃
   ある都市における主催者の弁     倉本徹