実業の日本
 第99巻第2号(96年2月号)掲載

浪人時代に通いつめた映画館、
それが倉本さんのその後の人生を変えた。
大学に入ってからの「映画研究会」、脱サラ後の自主上映興行、
そして国際性豊かなミニ・シアターの開設、運営と、
波乱に満ちた半生の大半は映画に費やされた。
そして名古屋にあっては、小さいながらも
知る人ぞ知る個性的豊かなミニシアターとなったいま、
その夢はさらに大きく広がろうとしている。

文・写真 葦田 万



小粒ながらパワフルな映画館
 
 ことしは、映画が誕生して101年目を迎えるが、「文化不毛」の地と揶揄される名古屋で、小粒ながらも国際的センスと、不思議なエネルギーを感じさせる映画館が評判を呼んでいる。
 かって、名古屋の”新宿”と呼ばれ、猥雑な賑わいを見せた今池のネオン街。いまは寒々とした不況風に、すっかり身を縮み込ませてしまったかのようだ。
 その、さびれゆく街の一角に、いささか古ぼけた「今池スタービル」がある。ピンサロに居酒屋、喫茶店からアダルトビデオショップまでが軒を重ねる、名古屋特有の雑居ビルだ。
 このビルの2階に、朝から夜半まで、おもに20代の女性たちが、また中年の男女までが足繁く出入りしている、なんともちっぽけな映画館がある。
 その名は「名古屋シネマテーク」。開設は82年の6月で、広さは150平方b、席数はたったの45である。
 多様化するファンのニーズに対応するため、80年代の中頃まで、全国の主要都市に、「ミニシアター」と呼ばれる小規模な映画館が次々と出現した。それが”第一次ミニシアターブーム”と呼ばれるものだが、この「シネマテーク」は初めて東京にミニシアターが出現したと同時につくられた、いわば、「先駆け」的な存在である。
 もっとも、一般的になミニシアターは、およそ100〜300の座席数で、けっこうファッショナブルな雰囲気をもつものが多い。その意味では、この「シネマテーク」は、さしずめ”手作り風ミニシアター”といえるだろう。
 ところが、この小さな映画館、なりは小粒でも驚くべきパワーを見せつけるのだ。なんと、このキャパで、年間4万人もの観客を呼び込み、6000万円もの興行収入を上げるのである。
 名古屋市内には50もの映画館があるが、動員数においてはその中堅に位置するほどの業績だ。座席数の回転率で計算するならば、トップクラスである。代表の倉本徹さん(50)は、その人気の秘訣を訥々と話す。
「やはり、広い国際性、文化性を重視した、独自の企画が奉功していると思いますね。薄っぺらな世評に流されずに、内外のいい作品を厳選して、私たちはこれを観たい、と思う作品を上映しているからだと思います」
 ちなみに、最近の上映作品は、「フランソワ・トリュフォーの特集(フランス映画)」「石井聰互特集」そして「イッツ・オール・トゥルー(アメリカ映画)」などである。それぞれ、個性的なセンスと主張を持った作品で、国際性に富んだ選択を感じさせる。
 過去の作品としては、「アントニオ・ガウディ」「裸のランチ」「英国式庭園殺人事件」が、興行成績のベストスリーを形成している。
 また、アジアや中近東、北欧などの作品も意欲的に上映し、さながら”国際都市”を目指す名古屋にあって、草の根的だが、世界の文化やエトスを学べる「社会教育」の場ともいえそうだ。
 しかも、この「名古屋シネマテーク」の特徴は、リピーターが観客の多数を占めていることだ。永久会員と年会員を合わせると、やがて1000人にもなろうという勢いを示している。
「でも、開館当社はまったくの赤字で、しばらくどうしようもなかったですね。それが、3年目の『ガウディ』で、5312人という、いまでも記録に残る観客を動員し、赤字体質が一挙に改善できたんです。また、はっきりお客さんの手応えを実感し始めたのは、90年を過ぎてからですね。その後、なんとかすこしずつ黒字になっています」(倉本さん)
 ちなみに、初年度(83年3月決算)は、観客数が1万3800人、興行収入は107万円で、177万の赤字。翌年もまた138万円の赤字。そして、84年になり、「ガウディ」のおかげで観客数は28000人を超え、72万円の黒字に転換したのである。


映画館からは給料は1円ももらわない

  ところで、倉本さんは映画館名鑑にもオーナーと記されているのだが、じつはこの「シネマテーク」からは、給料は1円ももらっていない。
 倉本さんは現在、週4日、午後3時から夕刻まで、近所の塾で小学校の算数の講師をしている。いわば、生計はその塾の収入で立てているのだ。
 一方、「シネマテーク」には、専従が3人とアルバイトが5人おり、その給料は全額収益から支払われている。
 連日、映画館には経営責任者として顔を出し、財務から企画まで厳しく管理している倉本さんだが、どうしてこの映画館から自分の給料をとらないのか。
「映画は娯楽であり、文化なんですが、われわれはこの映画館を一種の文化事業として位置づけているんですね。会社組織ではないんです。そして、出資してくれた理事のなかには公務員が数名おりますが、彼らは利益や報酬はもらえないんです」(倉本さん)
 どうやら、「シネマテーク」が、いまのところとりわけ利潤を追求しない事業体であることは理解できる。だが、そのことが、倉本さんが給料をもらわない理由にはならないのではないか。
 また、どんな事業であれ、自由市場経済にあっては、きちんとした経営理念がなければ、成功は望めない。この小さな映画館が、場所的なハンディをものともせず好評を得ている背景には、いわばアントレプレナーとしての、倉本さんの卓越したマネジメントが必ずあるはずだ。
 奥さんの美登里さん(36)は、倉本さんの隠れたマインドを、こう打ち明けてくれた。
「家計簿は自分でつけますし、すごいコスト意識をもっているんです。高校生のときから東大の”光クラブ”事件に関心をもったといっていますから、ビジネスに強い意欲をもっていることは確かです。 この映画館を足がかりにもっと大きな事業をしたいと考えているはずですよ」
 支配人の平野勇治さん(34)は、この14年間、倉本さんにピッタリくっついて多くのことを学ばされた。
「学生根性を叩き直されましたね。いうことは細かいですよ。電気を無駄づかいするな、余計なカネを使うな。遅刻したら、いいかげんにしろと睨まれましたね。企画についても、うちで上映する価値と、どれほどペイするのか、それをつきつめろと強く指示されます」
 寡黙でいつも奥歯を噛み締めているような倉本さんだが、その鋭い視線の先には、文化と娯楽を念頭においた、それなりの事業の”青写真”がありそうだ。なぜなら、押し寄せる観客に対して、いまの立地とキャパがあまりにもお粗末なのは、誰しも認めているからだ。
 しかし、ここまでの道のりにもまた、紆余曲折があったことは間違いない。それは、ひとりの男の信念と挫折、そして周囲の人々の優しさがおりなす、「名古屋シネマテーク物語」とタイトルがつきそうな、ミニドラマがある。


傷心のなかで知った人のやさしさ
 
 名古屋の冬は底冷えがする。おまけにしばしば強い風が吹き、道行く人々の首をすくめさせる。
 とりわけ木枯らしが吹き荒れた80年の暮れ、今池の街を、目ばかりギョロギョロつかせた男が、外套の襟をたてて足早に歩いていた。
 男は倉本さん。当時34歳で独身である。その4年前には、名古屋の紡績会社に2年ほど勤め、社内では将来を嘱望されながら脱サラしていた。その後、出身地の伊勢で塾を開きながら、国立名古屋大学中に設立した、貸しホールなどで自主的に映画会を催す会、「ナゴヤシネアスト」の代表に戻っていた。
 当時、名古屋では一般の映画館では観られない、内外の古い名作、野心作、記録映画などを、倉本さんはこの会を通して、年間70回も上映していた。
 映画会には、共催として市教育委員会や中日新聞、また日仏学館などが名を連ねることもある。倉本さんは、そのペタンチックでゲリラ的な上映団体の、いわば”ジプシー興行主”として、周囲に知られた存在だった。
 だが、このときの倉本さんの心は、いささかボロボロになっていた。
 倉本さんには数年前から、遅咲きの「初恋」ともいうべき、将来をかたく誓い合った恋人がいた。ところが、彼女との結婚資金として貯めていた50万円を、ある時、逼迫していた「ナゴヤシネアスト」の上映費用に、無断で回してしまったのである。
 これまでも、塾での収益を上映費用の赤字に補填していたから、理解は得られると思っていた。だが、結果はアッサリと、そして無残だった。
「きっと結婚してもこういうことはあると思うから、あなたとは別れます!」
 信じていた女性は一方的に去り、倉本さんも、それ以上、引き止める努力はできなかった。こういうときに悪いことは重なるもので、結局、その上映会も客の入りはメロメロであった。
 なけなしの貯金と最愛の女性、その両方を失った倉本さんに、今池の師走の風がやけに冷たく感じられた。
 おそらく、倉本さんは彼女よりも映画を愛してしまったのだろう。だが、そんな倉本さん心に、
<いつまでも、こんなやり方を続けていていいのだろうか・・・・・・>

という焦りが生じていたことも否定はできない。合わせて40
`ものフィルムケースと映写機を担いで、市内の各地を転々とすることに、いささかシンドくなっていたのも事実なのだ。
 そんな強気と弱気が胸のなかでぶつかり合いながら、倉本さんの足は、「一番街」を右に折れ、「今池スタービル」へと向かった。そして、地下にある飲み屋「六文銭」の暖簾をくぐった。
 数ヶ月前、知人に連れられてきて以来、倉本さんはこの店の常連客になっていた。とはいえ、ポケットのなかには500円玉が一個あるだけだ。
「クラさん、今日は遅かったね」
 声をかけたのは通称”ヒゲオヤジ”と呼ばれる「六文銭」のマスター、三嶋寛さん(57)だ。
 このヒゲオヤジもその3年前に、地元の縫製機メーカーを、営業所長まで昇りつめながら脱サラ、この炉端焼き屋に転進した変わりダネだ。

「組織に振り回されるのがいやなんだよ。自分の納得のいく人間関係のなかで生きていきたいんだ」
 ヒゲオヤジは目を細めてそう話す。一方、寡黙な倉本さんは、みずからの脱サラ理由をあまり語らない。ただ一言、「人間を大事にしない会社は嫌いだ」
と目を剥いて呟くのみだ。

 ヒゲオヤジは、倉本さんが塾の収入を映画上映のために使ってしまい、いつもピーピーしていることを知っていた。だから、倉本さんだけには特別、わずか500円で飲ませていたのだ。
 生まれてこのかた、決して弱音を吐いたことのない倉本さんだが、この日ばかりは様子が違った。
 大失恋の痛手もあって、ついポロッとヒゲオヤジに溜め息をつき、愚痴ってしまった。
「オヤジさん、オレもう、ジプシー上映するのは無理かなあ」
 すると、ヒゲオヤジはイカゲソを焼きながら応じた。
「二階の歯医者のところがいま空いててね、大家が新しい借り手を探しているんだよ。そこを、映画館にしたらどうだい。オレが紹介するよ。カネがない? みんなでなんとかしようじゃないか」
 話を聞きながら、だんだんと下を向いてしまった倉本さんのもつビールのコップが、小刻みに震えていた。
 災い転じて福となす。自主上映活動を精力的に行ってきた、ひとりの口下手の映画狂が、ついに念願の常設館をもつチャンスをつかんだ瞬間である。
 倉本さんの人生はこれまで、そのやさしさが起因すると思われるのだが、いささか要領の悪さで一貫していた。自分の決めたことは、「鉄の意志」で持続する根性はあるものの、なかなか自分で新たな展開に着手できない性格なのだ。
 しかし、その倉本さんの生きざまに多くの人が信頼を感じ、「ファン」となったのも事実だ。
「目を見て、こいつは信用できると思ったね。律儀な男だよ」(三嶋さん)
 不器用な男が、失恋をきっかけに独立人生の「拠点」を持ったのも、やはり、そんな生き方の結果だといえるのだろう。


大家さんを説得協力を得る
  
 ヒョンなことから映画館の「場所」は見つかった。だが、その後、倉本さんはようやく50万円貯めたものの、それ以上のカネはなかった。しかも、肝心の大家さんが、倉本さんの計画に賛成しなかった。
 この大家さんは、じつは名古屋周辺で数ヵ所映画館を経営している、興行経験者である。倉本さんの映画への思い入れには共感するものの、営利にはこだわらないという、その運営スタイルには、いささかだが疑問を感じた。
 しかも、もともと「今池スタービル」は、日活ロマンポルノ全盛のころには映画館だった。映画の斜陽化とともに、雑居ビルに衣替えした経緯がある。そこにまた映画館を、しかも、あまり商売にならない作品を上映するという。
 「そんなことおやめなさいな。時期も悪いし、あそこでは儲かりはしないよ」
 大家さんはそう助言した。しかし、優秀な内外作品を上映する価値を説く倉本さんの熱意と、これまでの「シネアスト」での活動の経緯を聞くと、大家さんはやはり胸をうたれた。しばらく唸った後、ついにこういった。
「そうか、それならやってみなさい。カネはないんでしょう。家賃は据え置き、敷金、礼金は催促なしでいいよ」
 家賃は27万円、その後、隣の資料室や駐車場も借り、現在40万円になっているが、14年間、その額は据え置かれたままだ。むろん、ヒゲオヤジの「六文銭」やその他のテナントも同様だという。
 なんとも奇特な大家さんだが、これは一種のミニ「企業メセナ」ともいえるのかもしれない。いずれにしろ、この大家さんの決断がなければ、「名古屋シネマテーク」はできなかっただろう。
 問題は改装費と機械購入費である。35_映写機は中古を200万円で手配したが、音響、電気など内装費は、市内の業者の見積もりでは、2500万円はかかるといわれた。とてもそんなカネはない。すると、伊勢の実家近くの電気店が、手間賃だけの900万円でやるよ、といってくれた。
「窮すれば通すといいますが、知らない方が突然助けてくれました。その心がとても嬉しかったですね」(倉本さん)
 その時点で、倉本さんは「ナゴヤシネアスト」の関係者たちから800万円、名大の友人関係から200万円、そして市民運動のグループから300万円、その他の知り合いから200万円の、合計1500万円の「資金提供」を約束されていた。
 だが、あくまでそれは”約束”で、いまここに現金があるわけではない。
 そこで、当面の工事に500万円くらいは必要だろうと、ヒゲオヤジが知り合いの羽振りのいい開業医を引き連れ、地元の大手T銀行へ融資依頼へいった。
 ところが、自分たちふたりで倉本を保証するといっても、返事は、
「ダメです、貸せません」
だった。文化事業に対する銀行の姿勢がやや窺えるえるようなエピソードだ。

 82年に入り、当初、5月開設という目標を立ててから、およそ105人もの人々から、1500万円の資金は集まった。そのなかから、15人の理事が選ばれ、この「事業」を運営することになった。もっとも、事業上は、倉本さんの判断で運営されている、といっていい。
 倉本さんは、この過程で「名古屋シネマテーク」設立にむけ、「定款」を作成した。ちょっと小難しいが、<目的>の条項には次のように書かれている。
「本会は、陽の目を見ることが少ない古今東西の映画が作品の紹介作業を行い、あわせて鑑賞活動の質的向上と、批評精神の育成、ひいては創造的映画情況の建設を図り、もって映画の発展に寄与する」
 そして、<事業>の条項に次のような趣旨が書かれている。
「上映会、および批評会、研究会の活動はナゴヤシネアストと呼称する」
 つまり、平たくいうならば、「名古屋シネマテーク」のいわば核は、名大時代から足かけ11年、名古屋中の貸しホールをめぐり、重い映写機とフィルムを担ぎ上映会を開催してきた、「ナゴヤシネアスト」のスピリットなのである。
 そして、その中身とは、すでに冒頭で倉本さんが述べたように、
「私たちが、本当に観たいと思う作品を上映する」
ということである。

 案外、このあたりが倉本さんの事業の本音なのだろう。わずかなカネをもらいあれこれ企画に口だされるより
「中身は任せろ、あとは成果を見ろ」
といったところではないか。しかし、それがここまで成功しているのは、その企画力に、優れたセンスと経験があるからにほかならない。

 なれば、それはいったいどのような人生によって培われたものなのか。それを解明するには、また、話をさかのぼらねばならない。  


映画には生きた情報と知性がある
  
 地元の伊勢の高校を卒業した倉本さんは、家では手染めを営む兄の期待を受け、大学受験を目ざした。
「徹、必ず、東大に受かるんだぞ!」
 高校では倉本さんは優等生だった。そして、兄は貧しいがゆえに大学を断念した思いがある。その悔しさと願いを、倉本さんの東大入学に賭けたのである。
 むろん、倉本さんもやる気十分。受験は東大1本に絞り込んだ。
 最初の年、自宅で1年浪人して受けた試験をは、みごとに落ちた。
 そして、2年目と3年目は上京し、市川で、寮生活をしながら有名予備校へ通った。学費と生活費は、兄がすべて賄っていた。だがこのとき、倉本さんの心にはなんとなく
<東大は、俺にはどうも歯が立ちそうにないな・・・>
 という思いが芽生え始めていた。しかし、兄にそれをいい出せなかった。手染めという3K労働で懸命に働き、自分のために仕送りを続ける兄に、「俺には無理だよ」とは、とてもいえなかったのである。だが、受験と自分の学力との板挟みは、延々と続く。
 鬱々とした日々が続いた。予備校には足が向かなくなった。しかし、その状況を変えることもドロップアウトすることもできず、窒息しそうな状況のなかで、心だけが現実を逃避し始めていた。
 あてもなく、船橋や市川の街をさすらった。ポケットには大したカネもない。そこで、ふと目についたのが、場末で古い3本立て、4本立てのフィルムを上映している映画館であった。ワラにもすがる思いで、倉本さんは座席についた。
「朝から晩までそんな映画館にいましたね。1年間に300本近くは観たと思います」(倉本さん)
 いまでも思い出に残るのは、「不知火検校(勝新太郎)」「美空ひばり特集」そして「エデンの東」だという。
 映画を観て、心は救われたが、翌年、翌々年と、やはり東大には受からなかった。
 そして、4年目。倉本さんは伊勢の実家に戻って勉強することにした。
 兄は、なにもいわなかった。倉本さんは申しわけない気持ちで一杯だったが、いまさら、受験をやめるわけにはいかない。翌年、倉本さんは、兄に黙って名古屋大学を受験した。
「そのとき、ここならちゃんと勉強すれば受かる、という感触をつかみました。同時に名古屋にはどうして東京のように、面白い映画を上映する館がないのかな、と痛感しましたね」(倉本さん)
 この年も受験に失敗したが、映画鑑賞の習慣は、きっちりインプリンティング(刷り込み)されてしまっていたようだ。
 そして5浪をへた69年の春、倉本さんは名大の経済学部へ合格し、晴れて大学生になることができた。早めに名大に絞り込んでいたら一浪程度ですんで、人生は変わっていたかもしれない。
 とまれ、周囲を見渡すと、みな4〜5歳下の連中ばかりである。彼らと一緒におとなしく講義を受け、勉学に勤しむことは、どうにもできなかったようだ。
 そこで倉本さんは、浪人中に心を救われながら培った、映画鑑賞の趣味を生かして「映画研究会」に入った。そして、俄然、本領を発揮し始めたのでる。
「クラさんがいた数年間だけ、ガラッと会の雰囲気が変わったようです。自主上映会をドンドン行い、まるで”興行師”のようだったと、いまだにいい伝えられています」(後輩の永吉直之さん)
 倉本さんは、みんなに「五浪さん」と呼ばれ慕われながら、学業には目もくれず、狂ったかと思われるほど、学外で上映会を遂行した。そして、その過程で、72年に結成されたのが「ナゴヤシネアスト」である。
 74年に卒業した後、就職している2年間は映画と縁を切っていたのだが、その心は、すでに映画にとり憑かれていたといえるだろう。
 その後の経過は、すでに述べた。
 さて、倉本さんは、五浪がきっかけになった”映画人生”を振り返りながら、照準はすでに、次の一手に絞っている。
「大学の”死んだ学問”ではなく、映画作品には生きた”情報”と”知性”があるんです。いま、若い人がミニシアターにくるということは、そこだと思いますね。私は、文化と娯楽は不可分だと思っています。価値意識をもって、お洒落でしかも格調のある”映画館ビル”をつくれたらと、いま考えています」
 そしてそのときは、きちんと会社組織にして自分も給料をもらうという。
 トム・ピーターズは”エクセレント・カンパニー”の条件として「価値観に基づく実践」の重要性を説いている。少々回り道をしたが、名古屋に、倉本さんの、小さいながらも魅力的なカンパニーができる日は近いかもしれない。