季刊・ヴォワイアン Vol.4 
86.10.01 掲載

聞き手:瀬々敬久

 映画館が立ち並ぶ名古屋の商業地域、今池にある雑居ビルの2階に名古屋シネマテークがある。16m/mは勿論35m/mの映写機を備えた、全国でも初めての“興行場”としての認可を得た自主上映常設館。保健所申請40席(最大収容人員57)、全体の広さは125平米、83平米が映写室と客席、43平米が事務室と談話室、スクリーンの大きさは縦1.5m。オープンは82年6月、名古屋シネマテークの現在代表の倉本徹さんにお聞きした。
 
━自主上映を始められた動機と現在までの活動の経過をお聞かせ下さい。
倉本 元々、東京で予備校に2年位いまして、その頃映画を見だしたんですが、名古屋の大学に入ってから映画を見ようかなと思った時にですね、コマーシャルベースにのる映画しかやってないというような状況だったんですね。それでまあ、自分達で映画を上映して見ようじゃないかということで自主上映を始めたんですが、それが71年ですね。それで当然赤字が出てくるんですが、赤字になって少し休んで金を貯えて又上映して赤字になるという繰り返しでずーっときたんです。74年に一度就職しました。2年間位です。その間は後輩が若干やっていたんですが、その後会社を辞めて別に仕事をしながら又自主上映を始めたんですね。それが80年の段階で、その前から歳が歳なもんで、その時36歳位でしたが、やはり自主上映というかホール上映というのは、機材の運搬とかフィルムの運搬がかなりシンドイし、日常の雑用も肉体的にシンドかったりしまして、それでもう80年81年頃から小屋がないと維持できないんじゃないかというような感じだったんです。自分の肉体的な衰えが1番大きいんですけども、それと80年頃から自主輸入というか、謂るメジャーでやらないところがフィルムを入れてくる頻度がかなり多くなったんですね。それに対応するとなるとホールを借りていては対応できなくなるんじゃないかということもありまして、時代の趨勢というか、状況の変化に合わせて、作る必要があるんじゃないかということで、いろんな人に呼びかけ、およそ100人の方にいろいろ協力してもらい、約1300万円位の金を集めて、こういう小さな小屋を作った、というのが今までの経緯なんですけども。
 
━その当時名古屋に自主輸入された映画の受け皿は他になかたのでしょうか。
倉本 名古屋にはその当時、82年前後には全くないですね。ゲーテの場合は東京、京都ではホールを持っているんですが、名古屋にはゲーテ的なところは一切なくて、やっと84年位に日独文化フォーラムというのができたですが、それもやはり大学の先生が自分のところを事務所にしてやってますから、そういう会館というのは持っていない。
 
━他に上映主体がなくて一手に引き受けておられたことのシンドサから定期的な上映の場、常設館を持ちたいと思われたと考えていいのでしょうか。
倉本 71年の段階はかなりあったんですが、そういう自主映画というのは。だけど82年の段階では全くないといってよかったですね。特に欧日協会とかアテネ・フランセの作品を受け入れる体制は、名古屋ではうちしかなかったということもありますから、そういうのを一手に受け入れざるを得ないということもありますね。そうすることが地方で自主上映活動をする人間の責任ではないかという気はしますね。
 
━「映画新聞」に書かれたように、中小の配給会社が、今まで自主上映でしかかからなかったような映画を配給していくという形で、メジャーとマイナーの分離が曖昧になっていくというのが最近ありますよね。そのへんと常設館という発想に繋がる部分というのはありましたか。
倉本 それは直接的にはないですね。それは後で起こってきたことというか、そういう傾向はありましたけども、ただしここまでやるとは思わなかった。本当は旧作リバイバルというのは地方館をツブしてしまう形なんですけどね。もはやヘラルドというのは地方館にとってはメリットは少ないと思うんですよね。というのは古い名作をいくくらやっても地方館では人は集まらない。そこにフィルムを提供できないというのは、配給会社としてはメジャーな配給会社にはなりえない。中小に成り下がったんじゃないかという気はしますね。それもヴィデオを売るということで入れてきてますから、案外そこらへんの作品はヴィデオを売ることで採算は合ってると思うんですよ。映画館でやるというのは地方館でやられなくても、東京などの大都市9都市でやられてしまえば宣伝効果、ヴィデオも売る為の宣伝効果になるという発想であると思うんですよね。映画館を生かすということを考えていないんじゃないかという気はしますね。
 
━現在、運営はどういう形でなさってますか。
倉本 当初は金土日が上映の中心だったんです。僕が学習塾をやったりしてたもんですから、金土日は時間を空けてあったんです。僕を中心にして8人から10人位の人が金土日をそれぞれ担当しながらやってたんです。それが1年目で、2年目位から、商業配給のフィルムをかけるようになると平日もやらなくちゃ採算が合わない、フィルムを貸してくれなかったりするもんで平日もやるようになってきたんです。そうするとボランティア的な形では不可能になりまして、シネマテークで生活の保証をする形で、専従として一人入ってもらったんです。3年目になりまして、まだ足りないということでもう一人入ってもらいました。スタッフというかボランティア的な要素が強かった形が、今は専従という形が強くなってそれで維持しております。僕自身は他のところで生活費は稼いでますから専従という形ではないんです。それに専従の人も元々から参加していた人ですから映画好きですし、一般的な企業のような形とは又違います。まあ、当初の形態とは大分違ってきてますね。
 
━情宣はどういう形でなさっていますか。
倉本 「名古屋シネマテーク通信」(プログラムと批評を載せたA3版見開きサイズの通信)を2万位刷ってますし、それからこの作品だとこの層に働きかければいいんじゃないかということで働きかけたり。たとえばデユラスやるんなら仏文関係、ガウディやるなら建築家とか美術、彫刻関係というところに働きかけていくふうに作品によってターゲットを絞り込みます。「通信」は名古屋市内を中心にして大体100ヶ所位に置いて、後は映画の試写会とかで配ったり、音楽とか演劇関係の催があるとそこの会場で配ったりしています。情宣の形としては昔と変わらないですね。ただ規模は大きくなってます。その前はもっと小さいやつですけど、こういう通信を刷っていましたが、せいぜい8千ですから、それが倍になっています。新聞の日載も今は使っていますね。
 
 ━場内の配置等で、ここはこうしたという点はありますか。
倉本 これまでは座席の間隔が80cmで送っている劇場が多かったんですけど、それを90cmにしたんですね。消防法では確か75cm以上なんですけどね。
 
━非常燈を暗幕でさえぎってられますね
倉本 あれをやらないと明るいですから。消防署が来たら受付で誰かが対応してて、その間に誰かがはずしていくというように(笑)。場内の明るさなんて消防法通りやれば本が読めますからね。
 
━現在まで続けてこられて、実際の活動の中で思ったようにいかないというような点がありますか。
倉本 こちらの意気込みのようには参加者が集まらないし、参加者というかお客さんというのは自分の好きな作品だけしか来ないですから、ここが好きだから無理してでも来ようかという人は少ないです。そういう人を相手にしなければ維持できないというのが分かってきたというのがありますね。だからそれに対応していかざるを得ない。
 
━名古屋シネマテークは毎日映画を上映していて、普通の映画館と変わらない方式でやってますけど、見に来る観客の意識として、ここは普通の映画館とはちがうんだというような、ここに対する特別なイメージがあるんじゃないでしょうか。
倉本 そのようなイメージは特に最近ないんじゃないですか。普通の映画館と一緒というか、映画館を小さくしただけで、小さくて息苦しいなとか、画面が小さいなとか、そのように思う人が多いんじゃないか。ただ千人来てその中の一人二人はああ良くやってくれてるなという人もいると思うんですけどもね。その絶対数は少ないと思いますね。ホール上映をやってた時の方が、そういう人を肌で感じられる部分もあったりしましたけどね。それは少なくなってますね。
 
━そのへんは難しい問題なんでしょうか。
倉本 それは千人来て、そのうち一人二人分かってくれればいいということでやらざるを得ないし、又そういう層が増えることを期待してては維持できないし。
 
━実験映画とは個人映画の、名古屋の他の上映主体の活動の様子はこれまでどういう形でしたか。
倉本 僕が始めた頃は、自主製作というか、実験映画などをやるところがあったんですけども、80年頃からそれもなくなってます。うちも実験映画をやることはやってるんですけども、たとえば『ロスト・ロスト・ロスト』とか『天使』とか、今度の『時を数えて、砂漠に立つ』とかのイメージ・フォーラムの初公開ものに関しては確実にうちが1週間位やってきています。ただ、それら以外についてはやれないという状況がありますね。シネマテークを作った当座ならば出来た可能性はありますが。この場を維持していくには色んな面で経費がかかるんですね。たとえば家賃とかを含めて1週間で30万位要る。30万を出す為にそういう作品がやれるかというとやれないですね。それでやはり特に今年度、85年度はそういう作品を全くやれないという状況があります。
 
━他の上映団体は個人映画とかの取り組みはしていないんですか。
倉本 うちのメンバーが実験映画を半年位前からやり出しているんですが。それは別の会場を借りてやっている。ここではやれないんです。確実に大きな赤字になりますから。ただ僕の中では、シネマテークの隣りにここの規模の半分位のスペースが空いてるんですが、そこを借りて16m/mを中心にした、実験映画を含めた上映室を作ろうかなという気はあるんです。そうすると経費的にはフィルム代と家賃だけですんじゃうもんで、小さな会場を借りるよりは安くつく。又それを作るというのは一つにはアテネ・フランセがアメリカのサイレント映画を150本位持ってまして、それを上映したいなという気もあるんですね。個人映画とか実験映画とかは、どうしても参加者の人数が限られてますから、そういうふうなやり方なら可能だろうなと考えています。
 
━そういう映画に対しての見たいという欲求は広範にあるんでしょうか。
倉本 見たいという欲求は少ないと思います。特に自主製作を含めると。ひとつのフェスティバルにしてしまえば別なんですが、単発では見たいという層は少ないと思いますね。『パラダイス・ビュー』とかですと、東京で一応話題にしてくれますからね、出来ると思うんですけど。又別に『星くず兄弟の伝説』とかありましたけども、そういうのはうちがやらなくても「ナゴヤ・プレイガイドジャーナル」とか「ほっちぼっち」とかの情報誌にいる人間がやったりしてます。それから、そういう作品というのは大学の映研の連中があつまって自分等の作品をやるついでに、メインになるやつがないといけないから、集めてやったりというのはありますね。
 
━今までやってこられた映画での自負できる作品なんかはありますか。
倉本 僕よりも専従のスタッフの方が自負する作品というのはあると思うんですが、僕の場合、これまで3年半良く維持してきたなという気持ちの方が強いですね。それは昔一本一本に対して丁寧に扱いましたから、自分が丁寧に扱った分、思いというのがあるんですよね。今のスケジュールを入れていかないといけませんから、その中で収支を合わすような、これは赤字になるけどこれは黒字になるだろうなというところではめ込んだりしていますから、余りこれやって良かったなという作品は少ないですね。昔のような思いというのがなくなったという感じはしますね。
 
━以前、シネアスト時代に出された雑誌の中で、深尾道典さんの特集も組まれてて、あの記事を読んですごいポリシーをかんじたんですけど。
倉本 あの時はポリシー、まだあったんですけど(笑)。今はもう、いかに喧嘩せずにいようかというのが強いですよ(笑)
 
━一貫して持ちたいというポリシーはいかがなんですか。
倉本 余りポリシーはないんじゃないですか(笑)。ただ、見捨てられている作品というか、誰かがやれば見れるのにそれが見れないという状況だけは作りたくないという気持ちは持続したいですね。というのは、東京でやっているのに、なぜ地方で見れないか。名古屋に住んでいるのにわざわざ東京まで行かなければ見れないようではちょっと恥ずかしいんじゃないかということなんです。200万もいるのに、その中で誰かがやれば見れる状況が作れるのに、なぜ作らないかというような気持ちは今もありますけどもね。さらに言えば、若いのが育ってきてないというのは不満です。うちがあまりに色んなルートをつかんでしまって他の人が入りこむ余地がないというか、入り込みにくいというところを作ってしまっていますから、逆にひとつの悪弊かも分かりませんけどね、うち自身の存在自体が。出てくると恐ろしいところ
もあるんですけど、やはりそういう人がでてきて欲しいなというのはありますね。