朝日新聞84年8月20日


 
同好会形式、稼ぎは学習塾

   <どんな小屋を経営?>
 飲み屋街にある五階建て雑居ビルの二階。いす席四十。上映中の入場や飲食厳禁。娯楽より「表現」として見る本物の映画館、つまり図書館と同じです。平常は二本立て、週替わり、当日券は一般千円から中高生七百円まで。専従は僕と僕にだまされた南山大OB二人。上映映画を選ぶボランティア同様の九人。プリントを借りる交渉から会誌の編集、映写、もぎりも交代で。せりふを訳し、スライドにして写したり・・・・・・手づくり。

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日本で見られぬ名作も上映
   <上映するのは?>
 主に古い名作。半世紀前のルネ・クレールのものとか・・・・・・「女と男のいる舗道」では、僕と同じゴダールの心情を発見し、「東京物語」に両親の影を思い、「水俣・不知火海」では・・・・・・と感動を呼ぶ名作が、商業主義の下で日の目を見ないことを許せなかった。外国から取り寄せ、上映後返した「ハンガリア狂詩曲」や「フェアープレイ」など、日本では二度と見られない名作もやりました。
   <監督も来たって?>
 八月五日には、ハンガリーのコーシャ・フェレンツェ監督が観客と対話し、彼の反核映画「ゲルニカ」などを上映しました。うちの小屋の話を聞き、進んで来てくれたんです。米のジョナス・メカス監督など、観客や私らと近くの飲み屋へ付き合ってくれ、割り勘で語り明かしました。時代劇の巨匠加藤泰、記録映画の羽田澄子、プライベートフィルムの松本俊夫各監督らも、小屋で観客とひざ付き合わせて映画論をぶちました。
   <ファンはどんな・・・・・・>
 中心は二十代半ば。学生や若手社会人。五十代も多い。ただ数は一日平均五十人。最高記録はこの六月の「ニッポン国・古屋敷村」。小川プロ製作、三時間半の記録映画。商業館は見向きもしなかったんですが、一週間で千三百人来ました。ベルリン国際映画祭国際批評家賞を受けてる。最低は「宮本武蔵」。一週間で八十三人。層が合わなかったんですな。やはり。
   <経営が大変でしょ?>
 年会費二千円の会員が三百四十人ほどにふえ、少しは楽になりました。会員には、料金を割り引き、ロッカー十個近くにぎっしり詰まった文献を開放しています。古今東西、タイトルだけでどんな映画か大体分かる。みんなで集めまして。赤字? そう、また。週四百五十人入ればとんとんですが。平均三百人。従って給料が出ないんで、専従三人は学習塾の講師をして生活しています。私は三ヶ所。うち一ヶ所がまた赤字で、月収十七万円。

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金銭感覚ずれた人がカンパ
   <よく頑張れますな・・・・・・>

 飲むのも五百円で三、四時間ねばり・・・・・・金銭感覚のずれたのばかり集まるスナックで。反五輪や反核の運動家とか、映研の仲間とか・・・・・・こういう連中が資金源。カンパで百人から千三百万円集まって発足できたんです。一人五十万円以下にして。口出しされる恐れが出た時、五十万円なら自力で返せる思って。前からの仲間が中心で、手切れ金のつもりじゃないですか。見返り? 招待券だけ。
   <映画にのめり込んで行ったのはいつから?>
 国立をめざしたのが間違いで・・・・・・貧乏で私立へ行けない。実力以上の所を狙って自分の限界を知り、逃避した先が映画でした。浪人二年目から勉強しないで、見た映画は年二百本。高校まではほとんど見てなかったのに。パチンコも毎日のように・・・・・・二つとも一人でやれるでしょ、安いし、暇つぶしには・・・・・・結局高くついて。貧乏人の安物買いでした。
   <映画が病みつきとなり、名大に入っても・・・・・・>
 合格発表の場で映研に入り、在学五年間で映画のとりこになって・・・・・・大画面の迫力、重厚さ、裏に秘められた夢みたいなもんを疑似体験する面白さが分かって。すぐ映研の中心になって・・・・・・とっくに社会人の年でしょ、みんな従っちゃう。牢名主的存在。ホールを借り手映画会を開いたりして・・・・・・東京にはいっぱいある名画座が名古屋にはないもんでいらだって。開く度にもうかって。
   <何かをしました?>
 映画を作りました、8ミリですが。「彷徨(ほうこう)」などという題の短編を三本。上映会もしょっちゅう開きまして。赤字を心配した映研の仲間は「そこまではついてけん」といいだすもんで、一匹オオカミになって「ナゴヤシネアスト」という名で映画会を開いていきました。区役所ホールなどに社会人も集めまして。PR? チラシ作って喫茶店などでまいたり・・・・・・。
   <それでたった五年で卒業できた?>
 おいといても仕様がないと思われたんちゃいますか。卒論が「可」で合格。ふつうの人はほとんどが優。史上初めてと脅されて・・・・・・講義は学部三年間で三回、計六時間出ただけ。出席も取られなかった。取られとったとしたら“子分”が代返してくれとったはず。生活費? ちり紙交換で。名大の中で「毎度・・・・・・」ってやりまして、独占的に。研究室にたまったのをごっそり。

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もう逃げ出せなくって・・・
   <会社を二年でやめ・・・・・・>

 郷里伊勢で学習塾を始め、土、日曜は失業保険を元手に、名古屋で映画会を再開しました。心おきなく映画に打ち込めると。35ミリのプリントを借り、場末の劇場を借り切ったりして。貸しホールだと、近所の映画館が文句いうもんで。海賊版だとレンターシアターでやれますが・・・・・・以前でしたら足を洗うこともできたんですが、シネマテークを作ったもんで逃げ出せなくなって・・・・・・。
                                         (大鹿八郎編集委員)