自前の映画館
 
とうかい 家庭 




朝日新聞 82年9月8日

  「年に一度か二度」、自分の感性を強烈に揺さぶる作品の出合うことがある。この時、自主上映の疲れも資金繰りの苦労も一度に吹きとんでしまう」というのは、自主上映グループ・ナゴヤシネアスト(会員270人)の代表・倉本徹さん(37)=名古屋市千種区今池1−6−13。「自分たちの見たい映画を自分たちの手で」と自主上映12年目のこの6月、名古屋・今池に自前の映画館「名古屋シネマテーク」を作った。
 繁華街の雑居ビルの二階。128平方bのミニ映画館は40席。映写室には8_、16_、35_の映写機。それに、“映画図書館”をめざす資料室と談話室もある。大学生4人を含む8人のスタッフが無給で上映にあたっている。自主上映グループが専門の上映施設を持ったのは全国でも珍しい。
 「既存の興行ルートに乗らない、いい作品がいろいろなルートで輸入されることもあって、この五年ほど上映本数は年間100本近く。貸館やホールを転々とするジプシー上映では、機材の運搬など僕自身肉体的限界を感じ出した。それに飛び込み作品の対応も難しくなって・・・」。この三年ほど専用スペースの必要を痛感していた。
 常設館の夢はこの1月、現在のビルの空き室情報が入り急に具体化した。三月からひと口10万円の設立資金の支援を呼びかけた。倉本さんの自主上映にかける熱意に、71人から当座必要な一千万円が寄せられて、予想以上に早く実現。「途中何回かやめようかと思ったこともあったけど、今度ばかりは11年間続けてきて本当によかったと思った」。眼鏡の奥の目が光った。
 伊勢市の生まれ。映画との出会いは、東京での予備校時代。都会での孤独な浪人生活を救ってくれたのは、映画とパチンコだった。東京で二年、伊勢に帰って家業を手伝いながら三年の浪人生活の末、44年名大経済学部へ。46年に名大映画研究会の仲間と「ナゴヤシネアスト」を作る。最初の上映活動は名古屋市中区役所ホールでの大島渚「愛と希望の街」「日本春歌考」。500人入った。
 以来「ボリビア映画祭」「ドイツ映画祭」などと銘うち、多彩な海外の映画や日本の名作、前衛映画選集、「三里塚・辺部部落」「水俣」などの記録映画など十一年間に600本を紹介してきた。「自分だけで満足するなら東京へでも行って見てくればいい。でも200万都市名古屋で、見たいものが見られない状況はおかしいと思うのです」。商業ペースで流される、与えられっぱなしの映画文化への抵抗、新しい映画状況創造への期待が活動の原動力で、これまで上映した600本は倉本さんが一人で企画し、上映、赤字も一人で背負ってきた。
 名大卒後、2年間、紡績会社に就職したが、5年前から伊勢市の自宅で週四日学習塾を開いている。「伊勢市ではあいかわらず居候。名古屋での週三日の生活費を除くと、収入は毎年赤字補填で消えた」。いまだに独身。
 自前館では、ハンガリー映画祭、イタリア映画傑作選、記録映画「早池峰の賦」などに次いで15日から西ドイツ映画「ある道化師」を上映する。さらに近く「「愛のコリーダ」の原作問題を起こした深尾道典著「ある女の生涯」をウニタ書店と共同出版する。