人欄

日本経済新聞 81年8月2日

 東京には名画座がいっぱいあった。池袋文芸座、飯田橋佳作座、新宿文化・・・浪人時代の二年間、「暇はいくらでもあったから、映画館に入りびたりだった」。名大に入って、名古屋の街を名作、旧作を求めて歩く。だが、ない。頼みの綱だった名宝文化も、間もなくつぶれてしまった。イライラがこうじて「エイ、それなら自分で映してやれ」
 名大映画研究会が、名古屋・中区所ホールで大島渚の「愛と希望の街」を自主上映してから、ちょうど十年。途中、名古屋シネアスト(映画人の意味)と改名して大学からも離れたが、同じような組織が次々に姿を消す中で、しっかりと灯を守り続けてきた。小柄、色白。一見、ひ弱なインテリタイプだが、「意地だけでやってる」と、むき出しの闘志を見せる。
 不毛の“名古屋映画事情”の原因を、名古屋人の土着性に求めるのが持論。
 「映画って流民文化の側面を持ってると思うんです。田舎から一人で都会に出た若者が、カネもなく、やることもなく、暇だけはあるからと、安上がりの映画館に飛び込む。ところが、名古屋の人たちは、そんなデラシネ性はない。みんな家族で暮らしていて、一人住まいの寂しさとか、日常生活の困難さとかを経験することが少ないからでしょうね」
 興行側に対しても不満がある。「入場料が高い。三本でも千円、千二百円というロードショー並料金じゃ、毎回行けるわけがない。だれも月々の映画代はほぼ一定しているはずですから」。それでも、一昨年あたりから、名画座ブーム的な現象があるのも事実。「一時の流行に過ぎないとも思うけど、せっかく小屋に向き始めた足だから、興行側は長期展望でファンに育て上げなければいかんでしょうね」と注文をつける。
 もっとも、ご本人は「いい映画を見分けられる人だけ相手にしているので、ブームには関心がない」と近ごろは開き直り気味。今は年間70万円にも上る赤字が最大の悩みで、「早く解消のメドを立てて、常設映写室の夢を実現させたいんです」と胸をふくらませている。