われら行動派

中部の文化 異色の群像


 1人で7年間に240本も

中日新聞 79年1月4日

 頭の中で考えているより、まず行動さ・・・・・と好きな音楽に、モノ作りに、ほんものの手ごたえを求めて情熱を燃やす青年たちがふえている。考えてみれば、ひたすら西欧に追いつき追いこせ、と高度成長の中で走りつづけてきた日本人が、石油ショックにぶつかって、はたと気づいたのは“オレの人生ってなんだ”ということ。
 他人が作った目標に向かって走りさえすればいい時代は過ぎた。これからは、自分の足元を見つめ直し、生きることの意味を再構築しながら“手づくり”の行動で確かめつつ生きていく時代ではないか。
 ここに紹介するのは、世にある幾多のグループのほんの一例にすぎないが、みんながそれぞれの目的に向かって行動を開始していることは確かだ。それが大きな波となるとき、そこに、地域に根ざした新しい文化が芽生えるはずである。
  ※手 づ く り 工 房 : 雑市楽座
    生活の知恵を採集:野外活動研究会
    ロ ッ ク グ ル ー プ:センチメンタルシティ・ロマンス
    映画を自主上映:   倉本徹さん
 の4人・グループが紹介されている。
 
 映画一本分が入ったフィルム・パッケージは、一個およそ30`。日ごろ力仕事をしたことのないサラリーマンには、決して気楽に持ち上げられる重さではない。倉本徹さん(33)は、それを一個、二個、車から降ろして、ひょいとかついだ。映写室まで、雑作もなく運んでいく。
 「監督さんも、出演者も、映画づくりは重労働といいますねどね。写すほうも重労働です」
 映画の自主上映・・・・。倉本さんがこの仕事に取り組んで7年。「ナゴヤシネアスト」と称しているが、内実は倉本さんただ一人の上映組織だ。名古屋大在学中からのキャリア。もちろん、この仕事で食えないから、三重県伊勢市浦口の自宅近くで開いている“塾”が生活の手段。
 「算数・数学を教えているんです。英語が得意だと、もっとタシになるんですが」。現在は小、中学生23人の教え子がいる。
 だから月曜から木曜まで塾で教えて、その夜、名古屋のシネアスト事務所(千種区朝岡町三ノ七)に現れたときから、映画青年・倉本徹に“変身”する。
 名古屋市内の今池ジャンジャン、レンターシアター50(中日シネラマ会館内)などが主な会場だが、会場にまばらの苦難時代もあった。
 「いや、苦労のほうが多かった。赤字がかさみ、チリ紙交換の仕事をしながら、しのいだころもありましたからね」
 この7年で倉本さんが企画した上映は60におよび、上映作品は長・中編が225本、短編が15本を数える。映画につかれた男の執念といおうか。
 最初に手がけたのが大島渚監督の「愛と希望の街」だった。この映画は社会性のある新鮮な作品として当時、評判になったが、映画会社の方針に合わず、場末の二番館で封切られた。
 倉本さんが最初にこの映画を上映したのは、彼の仕事の方向を決めたものといえそうだ。その後、ドイツ映画の「カリガリ博士」や「会議は踊る」のほか往年の名作「戦艦ポチョムキン」「巴里祭」「野いちご」などが上映リストを埋めている。
 商業映画館が、ソロバンに合わないと見向きもしない作品を拾っていく作業が、倉本さんの仕事といえないこともない。
 「なぜ、こんなことを続けるのかというんですか? こんどはこの映画を上映してやろうと企画することが、私にとって一種の発言運動であるわけです。だから、やみくもにやってるんですねどね」
 シネアストの上映リストの中で、目につくのが第二次大戦で一時祖国を失ったポーランドの映画だ。「灰とダイヤモンド」「地下水道」など。また日本では溝口健二、小津安二郎、市川崑監督らの作品。みんな倉本さんの、一つの発言姿勢だ。
 ただ倉本さんにとって不満なのは、十代のヤングたちが見にこないことだ。
 「彼らが“成長”するまで、じっくり待ちますよ」と、倉本さんはにっこり笑う。