タイトル | : 国語 |
記事No | : 209 |
投稿日 | : 2002/09/02(Mon) 22:50 |
投稿者 | : 木魚 |
国語はどうすればいいのか?
もちろん、倉本先生のBBSでお聞きすることではないのですが、 先生の算数でのミス矯正方法の応用が出来ないものかと考えましたので、ご意見をお聞かせ下さい。 私の考える算数と国語の差異です。 1)国語は問題文中に答えがあるが、算数は計算が必須である。 2)国語の記述問題と比べて、算数の答えは一つしかない。 3)国語は読書量、経験量という差を塾では補えない。 特に、3)の現実を教える側も納得しているので、それを是認していると考えられる。
国語の得意でない息子を例にさせて下さい。 息子は本を読まないということはありません。 正確に言うと、「ハリーポッター」とか「ダレンシャン」は寝食を削ってでも読みます。 ですが、推薦文庫、みたいなものは読まないタイプです。 読め!、と言えば読みますが、私はそんなのは意味無いと思ってますし。
国語の力というのは、上記のような、好き嫌いで出来不出来が決まってしまうものなんでしょうか。 私が目にしてきた国語教育法とは、本を好きにする、ということ以外、これだというのはありませんでした。 これって、おかしいですよね。 走りが遅い子供にかけっこを好きになれって言ってもムリだと思うのです。 遅くても、自分の出来る範囲で走りが早くなるように努力する(訓練)ことが、自分にとって益にな るということを悟らせることがしつけであり教育だと思っています。
このような考え(仮説ですが)に基づき、 倉本先生のミス発見&矯正方法から以下の記述を抜粋しました。 すべて見たというわけではありません。ご容赦を。
> 間違えたときには、どこで間違えたのかを保護者が点検し、自分のやりかたでは >間違えることを自覚させる。また、自覚なしでは直らないこと、入試でのその失点 >の恐ろしさを認識させる。
> このレポートをすべて読んでいただければお分かりいただけると思いますが、結局 > 、子供たちが間違える、出来ない原因の多くは、やってはいけないことをやってい > るからに過ぎません。決して能力の問題ではないはずです。その遠因は、やっては > いけないことをやっても優等生でいられる子供たちの集団に対して、その能力に応 > じた教育が学校ではなされていないためであり、さらに、保護者がそれに甘んじて > 低学年のうちに正しい方法を習慣付けてやらなかったためであると思います。
>当事者よりも他人である保護者の方が見つけやすい。 > 保護者のチェックが必要。 チェックするとき、計算の過程が残っていなければ、 >ミスがどこで生じたのかが分からない。 >このことは、式欄にもいえることである。式の途中が書かれていないと、ミスの箇所 >が分からない。
>間違いのパターンは、個性的である。すなわち、1人1人異なるので、間違いの >パターンをまず発見しなければならない。 その発見は、本人が行うのは難しく、保 >護者がやるべきであろう。 そのためには、1つの問題はまとまった位置で行い、式 >や筆算を残しておく必要がある。あたりかまわずバラバラに書くと、間違いを発見す >るのに時間がかかり、疲れてしまう。そして、その結果を、本人に示し、その種の計 >算に出会ったときには、特に注意するようにさせることが大切である。
これを踏まえて………………・、これをどのように国語に応用するか? 算数と国語の教授法の違いから考えました。 算数は、少なくとも、基礎→応用→発展、のように演習が組まれている。 さらに、各単元で理解不良があったとしたら、豊富な演習問題がある。 国語の場合は、この演習量が確保されていない。 算数の場合は、段階毎の理解度が把握できるが、国語の場合は、どこで間違ったのか の把握が難しい。 これを前提として………………・国語の場合も、算数と同じような解答のチェックが必要なのではない のか。
算数でのミスを発見するための途中式のチェックと同様に、国語でも文章理解の途中式を 教えることで、素質によってほとんど決まると言われている国語の能力を鍛えることが 出来るのではないかと考えて、少し頑張って見るつもりです。
とりあえず、受験研究社の標準問題集、の5年6年をやらせて、それを添削する過程で、 ミスのパターンのデータを調べてみようかな、と思っております。
追記:Yahooでも国語の教育法というトピがありますが、これだというものはありません。
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